コモドール64とベーマガ

 なぜかマイケルジャクソンのビデオを観た。永久保存版という奴。
 やっぱかっこいい。”BAD”までのマイケルはスーパースターのオーラを発していて理屈抜きにかっこいい。
 しかし”BAD”のビデオはやはりどこか変だ。監督がマーティン・スコセッシだからか。

 夕方実家にて懐かしいものを発見。
 パソコンである。
 コモドール64。
 1982年にアメリカで登場したホビーユースのパソコンである。
 登場以来アメリカとヨーロッパにおいて一家に一台状態となったベストセラー機種である。
 その日本語版だ。

 日本語版といっても当時の技術である。キーボードにカタカナが配列されているだけの代物。それでも当時のコモドールジャパンは1982年の年末商戦にこの機種を99800円にて投入した。姉妹機種としてゲーム機としての機能に限定したマックスマシーンも同時にリリース。
 これが、見事にこけた。
 マックスマシーンの方は廉価版という事もありそこそこ売れたのだが、コモドール64のほうはさっぱり売れなかった。
 やがてコモドールジャパンは日本での販売業務を停止。市場での価格はガクンと落ちた。
 俺がこいつを秋葉原で購入したのは、市場から姿を消す直前だったのである。

 さて、買ったはいいが肝心のソフトがない。ホントに、一切ないのである。
 当時コモドール64でゲームをするには「マイコンベーシックマガジン」に載っているプログラムを自分で打ち込むしかなかった。
 大体一つのゲームで6キロバイトくらいの容量があったと思う。
 それでも打ち込むには一時間以上かかったものだ。
 それにせっかく打ちこんでも、入力ミスがあると当然プログラムは動いてくれない。
 チェックも合わせると結構大変な作業だった。

 そのうち「ベーマガ」にすらプログラムが載らなくなると、必然的に自分でプログラムを作るようになる。
 しかし何しろ販売を停止しているパソコンだ。関連書籍は皆無だし、ほとほと参った。
 内部仕様を解説した「テクニカルリファレンスマニュアル」というのをメーカーに電話してコピーをとらせてもらい、コツコツとマシン語の勉強をした。CPUがアップル?と同じ物だったのでアップル関係の書籍も集めた。
 そのうちに内部解析に歯止めが利かなくなり、自作の逆アセンブラでROMの内容をアセンブリ言語に変換し、画面に表示させては、何と手書きで写していた。
 対応プリンターなど、もはや手に入らなかったのである。

 たまにパソコン雑誌に海外のパソコン事情が載り、コモドール64で動くゲームソフトが画面つきで紹介されていた。まだ日本のゲームが成熟していなかった頃である。いやあ、何度も飽かずに眺めたっけ。
 そのうち高校受験の季節が来てパソコンを押入れにしまい、しばらく触らずにいたのだけれど、結局その後二度と動かすことはなかった。
 高校に受かってからファミコンを買ったためである。

 そういうわけで俺のパソコン少年時代はいつのまにか幕を下ろしたわけだ。
 しかし、コモドール64のスペックはすごいぞ。

 CPU 6510(アップル?やファミコンに使われた6502の互換機。当然8ビット)
 メモリ 64KB(今じゃ画像一枚分ですか。されどBASICにはグラフィックをサポートする命令なし)
 ROM 10KB(この中にBASICが入っていた)
 画面  320×200(ドットあたり16色中1色指定。グラフィックRAM8KB)
 サウンド 三重和音可能だったような…(されどBASICにはサウンドをサポートする命令なし)

 このほかスプライト機能とか、滑らかなスクロールを可能にするチップを搭載してるとか、ハードの機能は色々あったのだが、いかんせんサポートする言語がないのだから始末に終えない。全部システムメモリーを直接アクセスしないといけなかった。
 もちろんアメリカではフロッピーベースで色々な言語がサポートされていたし、ソフトも多かったから、ハードが持つ機能を十二分に生かすことが出来たわけだ。
 羨ましいなんてもんじゃなかった。

 話はこれだけじゃないのだ。
 大学に入ってからしばらくして、ひょんなことでエプソンの98互換機を手に入れた。
 16ビットである。漢字も打てる。ワープロが出来る。ソフトが色々ある。RAMが640KBある。フロッピーを2台搭載している。
 俺の中ではコモドール64からいきなりの変化である。何しろコモドール64はカセットテープにデータを記録していたからな。
 まさに黒船だった。

 さてそのパソコンだが、丁度ノートパソコンが世に出始めた頃のもので、普通のノートパソコンがフロッピードライブを1台しか搭載してない時代に、2台搭載していることを売り物にしていた。
 その代わりにハードディスクの増設が不可能だった。
 だから、その頃から巨大化し始めたさまざまなアプリケーションを動かすには、メモリを増設して対応するしかなかった。
 最終的に4MB増設し、一太郎の4.3を使っていた。

 何と最近までそうだった。
 そうなのだ。ワープロ程度の機能なら10年前のパソコンでも十分なのだ。
 実際マグネシウムリボンの第4回公演「暮れなずめ街」までは一太郎の4.3で台本を書いた。

 そういうわけだから去年ウィンドウズ98マシンに触れたとき、こう思った。
 「おいおい、また黒船かい」

 それにしても今日の日記は長いな。日記じゃないな、これは。
 今、興奮して実家の俺の部屋のダンボール箱を開けたのだが、1982年から84年にかけてのパソコン雑誌が出てくる出てくる。
 前述の「マイコンBASICマガジン」が最も多く、1982年の12月号から85年の5月号まである。
 凄いな。欲しがる人いるんじゃないか?
 あと、「I/O」が数冊。
 今でこそマイナーな専門誌になってしまったが、当時はこの「I/O」と、電波新聞社の「月刊マイコン」と、「アスキー」が御三家と言われてたのだ。
 確か「アスキー」は一番人気がなかったぞ。あそこの会社が目立ってくるのは「ファミコン通信」が創刊されてからだ。

 こういう雑誌は5年や10年たつと邪魔になるけど、15年以上経つと資料的価値が出て来るなあ。
 皮肉なことに当時のパソコンの広告にはやたら「21世紀」の文字が目立つ。
 実際、お呼びじゃないのにねえ。黒船さん。