日テレ「ドキュメント」

 昼、いなり寿司を10個以上食った。
 こういうラジカルな満腹は、ハングリー精神からきている。矛盾はしていないと思う。

 加奈ちゃん、東さん、中山君が休みだったので、稽古は音のきっかけを合わせるのが中心になった。
 新宿の稽古場は狭く、自分の稽古がないときに自主練をすることができない。
 これには本当に苦労する。
 というより、かなり大きなストレスになっている。
 専用の稽古場を持つことの弊害の一つかもしれない。

 そんな新宿稽古場も、本日が最後である。明日から本番までは中野地域の公民館を転々とする予定。

 「プロ野球名勝負読本」読了。
 「緋色の記憶」トマス・H・クック、読み始める。

 週刊文春連載、ナンシー関の「テレビ消灯時間」にて、先日の「ドキュメント」のコラムが載っていた。
 主人公の少女の病状が胡散臭く見えてしまう番組の作りを批判する内容だった。
 以下、引用する。

 問題は番組である。どう見たって胡散臭く「出来上がって」いるこの「ドキュメンタリー」を胡散臭いままで放送した意図は何だ。仕上がった「番組」を見て胡散臭さを感じなかったと言うのであれば、それはテレビを作る側として大問題である。

 そしてこう続いている。

 「多重人格」と明言して「知られざる病気の現状を知らしめ、理解を促す」番組を目指すのであれば、「ツッコミどころ満載」は最も避けなければいけない。たとえそれが素人の無知ゆえの不当なツッコミであっても。見てるの素人ばっかりなんだから。

 製作者サイドの意見として読むならまことに正論だと思うが、おそらく(推論だが)その程度の議論は既に制作スタッフ側で意見の交換はされているのだと思う。その議論の根底にあるのは「テレビとはどうあるべきか」ではなく、「ドキュメンタリーとはどうあるべきか」に違いない。
 要するに、ドキュメンタリーを表現する手法の一つでしかなかったテレビが、いつの間にか主客転倒している現実こそ、問題があるのではなかろうか。

 それからもう一つ。
 「ドキュメント」が始まったのは今から30年前である。
 「サザエさん」や「笑点」同様、今更番組のカラーが変わるはずもない。
 俺にしてみたら30年もやってる番組がいまだに現実の世界にインパクトを与えること自体驚きなのだが。
 それこそ「テレビ番組には出来ないこと」なのではあるまいか。