餃子のことを考えた

 昨日、東海林さだおの本を色々と調べ、餃子についての記事を収集した。
 ダイナマイト浅香に言われて知っていたが、やはり宇都宮は餃子の町であるらしい。
 自然にそうなったと言うよりは、「売り」に乏しい県庁所在地宇都宮市の町興しとして、市が積極的に「そうなりたがっている」感じ。
 ともあれ、論より証拠。行ってみなければ始まらない。
 来月くらいに行ってみようか。

 北村薫の本を続けざまに読んでいるせいで、日頃の自堕落な言動が影を潜めてきた気がする。
 美しい言葉を、凛として発するよう心がける私。
 いいなあ。こういう生活態度をしていると、何だか肝臓の具合が良くなっていくようだ。

 肝臓の具合といっても別にそれほど破壊的に悪いわけではないのだ。
 しかし、絶好調というわけでもない。
 それが不満である。

 台本の構想を練る傍ら、昨日に引き続いてトップページの更新作業をする。
 途中であえなく断念。
 フリーソフトばかり使っている俺は、基本的にGIF画像を編集できるソフトを持っていないのだった。
 忌々しいGIF問題が片づくのはいつのことになるのやら。

 夜は「ギョーザ大作戦」についてコーヒーを飲みながら考える。

 要するに、「芝居で餃子が食いたい」というわけの分からない衝動があったから、そういう芝居を書こうと思ったわけだ。
 つまり、芝居の中の登場人物も、第一幕では同じなわけだ。
 「何で餃子なんか食わなきゃいけねえんだ?」
 そう思っているに違いないのだ。
 それが、二幕、三幕と進むにつれて、明らかになっていく。
 基本的にはそのパターンだ。

 しかし、もしも俺自身の中にある「なぜ?」が最後までとれなかった場合には、登場人物たちも同じ目に遭う。
 二幕、三幕と進むにつれても、明らかにならないのだ。
 登場人物にとって、舞台での一時間数十分は、人生そのものである。
 「ギョーザ大作戦」の登場人物にとっては、人生の意味とはまさしく、ギョーザである。
 運が良ければ、人生の意味も解けよう。
 しかもだ。解けようと解けまいと、人生は必ず終わる。
 この芝居においては、人生の意味(なぜ餃子を食うのか)が解けることによるメリットは、一つしかない。

 「その方が餃子うまいじゃん」

 なんとまあ、どうでもいいといったらこれほどどうでもいい人生はないなあ。
 けど、人生の意味なんてそんなもんじゃないのか?
 まだ終わってないからわからないけど。

 10時までそんな調子でぐだぐだ考えていた。
 体内のブドウ糖が切れかかってきたので本日はこれで閉店。