餃子が餃子であるために

 どうも自分には物事のほどほどを感じる能力が欠如しているようだ。
 昨日はビールをぐいぐい飲み、朝の4時半まで起きていた。
 今思うと大して飲みたかったわけではなかったのに。
 おかげで体調は最悪。

 仕事をしながらも布団が恋しくて仕方がなかった。
 「今日こそは早く寝よう」
 何度思ったことか。

 夕方、台本を書く。
 冒頭でバーベキューの準備をするシーンがある。
 そして現在のところ、まだ「ギョーザ」の「ギョ」の字も出ていない。
 書きながらふと、このままギョーザが一回も出てこなかったらどうなるだろう、と思う。
 「金返せ!」って言われるだろうか。

 ギョーザにはニンニクがつきものだが、オフィス街などではサラリーマン向けにニンニクの入っていないギョーザを出す店があったりする。
 一度銀座のラーメン屋で食ったことがあるが、ニンニク入りとどう違うのか、よくわからなかった。
 入れても入れなくても同じなら、入れなきゃいいのに。
 それともやはり違うのだろうか。

 ギョーザがギョーザであるための条件を調べるためには、材料を一つ一つ削除していき、「それを抜いたらもうギョーザじゃないよ!」というところまでいけばいい。
 まず、ニンニクは削除しても大丈夫だ。
 ニラも大丈夫だ。
 残るは肉と野菜だが、どちらかが残っていれば大丈夫な気がする。

 仮に、中身をカレーにしたら、人はなんと言うだろう?
 「こんなのギョーザじゃねえ!」
 怒り狂うだろうか?
 いやいや、案外あっさりしてるんじゃないか。
 「へえ、カレーギョーザか」

 ギョーザがギョーザであるためには、どうやら中身よりもそれを包む皮とその包み方が重要であるらしい。
 例えば直径3メートルくらいの巨大な皮があるとしよう。
 その皮で俺を包む。もちろんギョーザの包み方で。
 そしてどこかの街角に放置する。
 当然黒山の人だかりだ。

 「なんだこのでかいギョーザは」
 「食ってもいいのかな?」
 「よせよ、食いきれねえよ」

 もちろん中にいる俺は頬を赤く染めながらドキドキしている。
 群衆は、それがなぜそこにあるのかをいぶかしむだろうが、それがギョーザであることには疑問を持たないだろう。

 強引に結論を出すと、どんなものでも包んでしまえばギョーザになる、ということ。

 しかし、シューマイを餃子の皮で包んだらどうなるのだろう?