ビートたけし初監督直前記事

 朝から仕事をし、夕方うちに帰る、基本的な一日。
 昼の間、面白いことは特になし。

 D.R.クーンツ「ハイダエウェイ」読み始める。
 「バッド・プレース」と似たような味わい。
 2作連続でクーンツを読むと、アメリカ人はみんな、いつか必ず訪れるであろう「死」に、敢然と立ち向かっているように思えてくる。

 でも、もしもアメリカの国是が「常にナンバー1」じゃなく、「常にナンバー2」だったら、いくらか地球は過ごしやすかろうと思う。
 ナンバー2とはいえ、あらゆる分野である。
 総合的にはナンバー1てことになるだろう。
 それじゃ、いけないか?

 清原の調子がいい。
 巨人に移ってから5年目のシーズンであるが、今年はかなりいい成績を残しそうだ。
 清原が打つと嬉しく思う。
 逆に言えば、清原は打つことで、人を嬉しく思わせている。
 スターの条件だ。

 「たけしの誰でもピカソ」
 いかりや長介とビートたけしが絡むときたら、見るしかない。

 ビートたけしが、お笑いの最前線にいたのは、1984?5年頃までだったと思う。
 一般的には、フライデー事件の86年までと見る向きがあるが、86年のビートたけしはもはや「前衛」じゃなかった。
 要するに、「たけし城」などのレギュラー番組が増えて、たけしに不自由しない生活が実現していたのだ。

 84年はそうじゃなかった。
 ビートたけしがメインの番組は、「お笑いサドンデス」「たけしのほっかほっかタイム」くらいじゃなかっただろうか。
 「ひょうきん族」は、厳密には横沢プロデューサーの番組だったし。

 あの頃は、時たま放送される火曜ワイドスペシャルの「思わず笑ってしまいました」や、名人劇場の「たけし独演会」を、ひたすら心待ちにしながら、毎週木曜のオールナイトニッポンを聞くというのが、平均的たけしファンの生活だった。
 「フロッグマン」と聞いてニヤっとする人は、同じような体験をしてるはず。

 逆に、あの頃のドリフターズは、どこから見ても野暮ったく、前時代的に見えた。
 まあ、仕方がない。
 何しろ、84年といったら、「オールナイトフジ」全盛の年だ。
 「業界臭」のない「全員集合」は、NHK番組みたいにお堅く見えた。

 しかし時は流れ、あの頃テレビ界にひしめき合っていた「ひょうきん族系」タレントの姿を見ることは少なくなり、いかりや氏は渋いワキとして確固たる地歩を築いている。
 ビートたけしが世界的な映画監督になるなんて、誰が予想しただろう?

週刊SPA!89年2月23日号、31ページより。

 「とにかく、勝新にならないように頑張るよ」
 と緊張しているのが、今回初めて映画監督・主演にチャレンジするビートたけし。映画は松竹『その男 凶暴につき』。

    中略

 たけしの初監督が決まったのも多忙さのため、というから面白い。
 「初めは監督に深作欣二さんが予定されていたんですが、深作さんは撮影に50日は必要と主張したわけです。ところが、たけしサイドはどうスケジュールをやり繰りしても40日が限度、それで企画がとんざしたんですよ。ところが、あきらめ切れないたけしが松竹に直訴、それなら自分で監督をしてみたらどうか、ということになったわけです」
 松竹側の安易さにはあきれるが、ある芸能プロ関係者も、
 「松竹はたけしが40日間も時間がとれるとでも思っているんですかねえ」
 と、その甘さを笑っている。
 ただ、たけしは、
 「1日の睡眠時間を2時間に削ってでも作る」
 と意気込んでいる。
 ま、お手並み拝見といきたいが、映画作りは、シロウトといっていいたけしの映画監督初挑戦。40日そこそこの製作日数で、どんな作品ができるか、お手並み拝見だ。

 いやいや。運命ってば。

 さて、「たけしの誰でもピカソ」後半にて、いかりやさんとたけしの、当時の視聴率争いにまつわるトークがあり、全身を耳にして聞いたのだが、語るにはちょっと時間が短かったように思う。

 当時のビデオを今見ると、実は「ひょうきん族」の方がつまらなかったりする。
 つまらないというよりは、当時は新鮮だった「吉田君のおとうさん」とか、「ひょうきんデレクターズ」など、あえてシロウトを前面に出していくネタ手法が、今では使い古され尽くしたために、見ていてげんなりしてしまうのだ。
 逆に、「全員集合」のような作り込まれた笑いは、とても新鮮に感じる。

 一体、普遍とは何だろう。
 笑いにおいて、普遍は不変に非ずというのが俺の持論だが、吉本新喜劇のように、普遍は不変なりという文化もある。

 結論は、当分出そうにない。