猪木毒本

 まずは、「猪木毒本」から。

 昨夜、一息に読み終えた。
 別冊宝島などによくあった、ライターによる猪木論ではなく、実際に猪木と接したレスラーのインタビューをメインに編集してあるところが良かった。
 闘魂三銃士、小川、藤波、藤原(!)、ドン・フライ、鈴木みのる(!)、谷津嘉章、ライガー、KYワカマツ、石川雄規、グレート小鹿、そして掉尾を飾るのが、新間寿。

 藤原の語る、異種格闘技戦の舞台裏は、さすがに「猪木の近衛兵」といわれた人の話だけあって、めっぽう面白かった。
 今では伝説となっている、「ペールワン戦での腕折り」も、この人の口から語られるとすごみが増す。
 英雄の腕を折られ、暴動寸前の観衆に向かって、「ダーッ!」と手をあげたら、偶然にもアラーへの祈りに見えて、客が急に静かになった話など、まるでおとぎ話だ。

 それから、谷津嘉章の醒めた猪木観も、本全体を猪木礼賛で埋めるのを防ぐ意味で良かったと思う。
 「抑止力としてのジャイアント馬場」
 という表現をしていた。
 「抑止力」
 のたった一言で、現在の猪木歓迎ムードのすべてが言い表せてしまうところが、見事であった。

 そして、愛憎が相半ばし、すっかりどす黒い情念の人になってしまった新間氏の話も、ダークな魅力に満ちていた。

 昼、池袋芸術劇場小ホールにて、回転OZORA公演、「BLOOD」観る。
 昨年夏の芝居と比べると、今回の方が構成がうまく、終わり方が自然だった。
 細部に拘泥すると、
 「あそこは死ぬべき」
 とか、
 「死ぬべきじゃない」
 とか、無数の意見が出るのであろうが、そんなことは問題ではないと思う。(俺はね)
 たとえ展開的に納得がいかなくとも、終わるべき時に終わる芝居であることの方が重要である。(俺はね)
 逆に、ラストの展開に凝るあまり、終わるべき時に終わらない芝居は、非常に困る。
 ゆえに、ラストシーンが納得行かない時は、自分が観客モードにいる時だと思うことにしている。
 もちろん、あまりにも納得行かない時は別であるが。
 

 つかこうへい氏がかつて、
 「芝居で何が難しいかといえば、幕をおろすことほど難しいことはない」
 と、エッセイで書いていた。
 なにせ、お客さんを、それまで築き上げてきた虚構から、現実に戻すわけである。
 確かに難しい。
 「あ、終わった」
 とお客さんにわかるようにするのが、結構大変なのだ。(俺はね)
 お客さん一緒にイクことが最終目的なのだ。(俺はね)

 光瀬龍氏のSFで、「百億の昼と千億の夜」という名作がある。
 そのあとがきで光瀬氏は、舞台が好きであるということを述べた上で、こう言っている。
 「カーテンコールが嫌いで、芝居が終わるといつも、そっと劇場をあとにしてしまう」
 要するに、それまで存分に虚構の中に浸りきっていたのを、カーテンコールによって醒まして欲しくないということだ。
 その気持ちは非常にわかる。
 わかるがゆえに、ますます、ラストシーンをどうするか悩んでしまう。

 物語の構成にも、様々な型がある。
 プロローグとエピローグを同じ場面にし、間に挟むのはすべて回想という型。
 手塚治虫の「アドルフに告ぐ」なんかは、このパターンだ。
 映画「アマデウス」も、そうだ。
 ロバート・ゴダードの小説も、結構このパターンが多い。
 ラストシーンの余韻が深いが、筆力がいるのも事実。

 最初のシーンからラストシーンに向けて、時間が順繰りに流れていくという方法もある。
 芝居ではこのパターンが最も多いのではなかろうか。

 一番感銘を受けたのは、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」という小説。
 主人公が、自分の人生の場面を、まるでDVDで頭出しをするかのようにジャンプするのだ。
 死の瞬間を経験したかと思うと、次の瞬間赤ん坊の頃に戻ったりする。
 だから、自分がどういう人生を送るのかを知っており、人生の意味について達観しているのだ。

 この本を読んだのは5年前だが、こういう手法が演劇で生かせないものかと考え、マグネシウムリボンの旗揚げ公演で実験してみたのだが、そこまで徹底できなかった。
 もし徹底しても、芝居じゃ、面白くなかろう。