ウェルメイドプレイ

 中上健次「十九才の地図」読む。

 新聞の演劇欄に、ウェルメイドプレイの流行という記事が載っていた。
 井上ひさし、三谷幸喜、永井愛の三氏にインタビューしていた。
 三谷氏曰く、「思い切り笑ってもらって、お客さんの中に何も残らないのがいい」
 これは、エンターテイメントという言葉の定義と同義ではなかろうか?
 小林信彦も、「エンターテイメントは、一過性の快楽である」ということを言っていた。

 芝居を観たりして、自分の中に何かが残る方がいいのか悪いのか?
 答えはわからないが、生理で気に入らないものを無理やり理性で気に入ってないフリをする時によく使われる言葉が、「確かに面白いのかもしれないけど、それだけって感じ。何も残らないよね」
 まあ、世の中には確かに、心の中に台風一過みたいな爪あとを残してくれる芝居もあるのだが、年がら年中台風一過ばかりというのも困る。
 たまにはリゾート気分に浸りたいってもんだ。

 いや、逆か?
 演劇は本来、娼婦がたてる背中の爪あとみたいなものなのか?

 どのジャンルでも、巨匠と呼ばれる人は、両立している。
 だけど、八百屋の店頭に国産の松茸が並ぶことは少ない。

 とどのつまりわしらは、エンターテイメント享受者としての舌が多様化しすぎてしまい、普遍的な価値を絶対値で表すことができなくなっちまったんだ。
 世界中に満ち溢れる「甘い」「辛い」「苦い」「しょっぱい」「酸っぱい」等々の感想は、ただそれだけってなもんで、本当に欲しい「うまい」という感想は、滅多に得られなくなっている。
 結果は、派閥の乱立だ。
 2ちゃんねるを見ればわかる。

 夕方、桟敷童子の稽古。
 マラソン、NHK放送センターまで走る。
 稽古場に戻るまでに50分かかった。

 風呂泥棒たちのシーンを稽古。
 大勢が舞台に上がると、動きの牽制し合いがあり、蟻の群れみたいに集団が一つの法則で舞台をうごめくのが面白い。
 みんな、動きをある種の約束事に縛られている証拠だろう。
 例えば、お客さんに背中を見せない、とか。
 目線をきっちり決めて喋る、とか。

 そこから自由になるにはどうすればいいのだろうと考え、一つの結論に達した。

 ずばり、
 役者をやりながら役者をやめなくてはいけない
 ということだろう。

 なんだか禅問答みたいだ。