筒井康隆「敵」

 筒井康隆「敵」読み終える。
 非常に手ごたえのある本だった。
 解説にて川本三郎氏が一言、「老人文学の傑作である」と書いていた。
 その通りだろう。

 時間というものはもともと主観的なものだと思うが、この作品における老人時間の流れは、自分が老人になってみないと実感はできないであろうし、まさにその未体験感覚がこの作品をファンタジーにしている、と書いたら言い過ぎか?
 ともあれ、久しぶりに筒井康隆作品を満喫できて嬉しかった。

 図書館で借りた、クーンツの「ベストセラー小説の書き方」を読み始める。
 予感はしていたのだが、挑戦的とも言える論理の間に、いかにもアメリカ的なマーケティングの発想が盛り込まれていて、不快感を覚えつつもついつい読んでしまう。
 結局、この世界が資本主義によって覆い尽くされてしまいそうな現在においては、そこに所属する者達は自らの意図に関わらず拡大せざるを得ず、もはや歯止めは効かなくなっているのだ。
 拡大、膨張、そして、その先にあるのは?

 ウィンドウズXPも発売だしな。

 夕方、稽古場にて鈴木めぐみさんに言われた。
 「ドカ君、あたしに50円もらったことなんて日記に書くんじゃないわよ」
 「見てたんですか?」
 「見てるわよ。4キロ太ったことも、夜に雑炊食べてることも」
 周りの人たちが、「4キロ?」「走ってるのに?」などのリアクションをしたが、こうなるといかなる抗弁も意味を得ない。

 とりあえず体重の上昇は先週の頭でストップしたようだ。
 先週の月曜日にプラス4キロという、日本経済が羨みそうな上昇を記録した後、徐々に値は下がってきている。
 正直に書くと、現在プラス2キロである。

 夏の俺と現在の俺を見て、違うという人もいる。
 望めぐなどは、現在の俺は夏に比べて、アスパラドリンク化が進んだという。
 走って、筋肉がついたという意見だ。
 それは、ジーンズを履く時に腿の辺りがきつくなった事で実感している。
 要するに、元の体重があり、それが減る前にマラソンの距離をどんどん伸ばしていったため、体重を支える筋肉が大腿部などについてしまい、筋肉がついたことで運動そのものの負荷が軽減し、体重の減少要素はなくなり、さらに、増えた筋肉分の体重が元の体重に上乗せされてしまったということだ。

 まあ、俺の体重なんかはどうでもいい。
 少なくとも余分な脂肪がついたりした感覚はないので、むしろパンクラス的に開き直る今日この頃でもあるのだ。

 昨日に続いてスローモーションの稽古。
 なかなかうまくいかず、汗まみれになる。
 周りの人にアドバイスを受けながらフィードバックするが、東さん曰く、俺の体はでかいから、ひどく目立つらしく、原口さんによれば、楽をしているように見えるとのことだ。
 もちろん楽をしているはずもなく、体力も残っているのだが、要するに見せ方の問題なのだろう。
 当分はエネルギー効率を度外視して筋力を使うしかないだろう。
 動きの洗練はその後だ。

 妙に汗が出るのは、稽古だけのためではないだろう。
 暑くもなく寒くもない、しかも、ほんの少し前には猛烈な暑さを経験しているという10月前半みたいな季節には、体の体温調節機能がおかしくなったりするのだ。
 その証拠に、ラーメンを食って最も汗をかくのは今の季節だといってもいい。
 もちろん夏にもかくが、それは無理やり搾り出された汗だ。
 今の季節、ラーメンを食ってかく汗は、ラーメンが体に作用して流れ出た汗だ。
 そして、稽古でかく汗も、稽古の運動が純粋に作用して流れ出た汗といえる。

 10時45分、稽古場退出。

 ふと、演劇界と資本主義について考える。
 以前、代役システムについてのコラムを新聞で読んだのだが、日本は予算の関係もあって、代役というシステムは定着しているとは言い難いようだ。
 「死んでも舞台に出るのが役者である」
 この言葉にシンパシーを感じる演劇人は、周りに結構いると思う。
 が、よく考えなくても、この台詞が日本人の暗黒部分に抵触していることに気づかぬはずはない。

 似たような台詞は、かつて日本軍がよく吐いていなかったか?
 オウムの発想の出所も同じ闇にありはしないか?

 おそらく、日本の演劇は、いまだに産業革命が起きていないのだ。
 では、何が革命になるのだろう?

 その辺りの仕組みを解き明かすことができれば、大きな何かが動くのかもしれない。
 が、今はまだ、何もわからない。