好きだからこそビートたけしを卒業

 昨日は実家に帰ったのだが、甥二人が大暴れしておりPCが使えなかったために日記もアップできなかった。
 やることもなく夜の7時に眠り、深夜に起きてビールを飲み、2時に再び眠った。
 なんだか自分の身体や精神がシステムスタンバイ状態にあるみたいだ。

 今朝起きてカレーを食い、仕事をしながら徐々に頭の中を整理した。
 整理なんて書くほどのことじゃない。
 停滞モードにはまりそこから抜け出す時必ずしている習慣だ。

 その昔バイオリズムがやたらと流行った。
 人間には身体・感情・知性それぞれのリズムがあり、好調期から低調期に移る瞬間が危ない。
 そういえば病的な躁鬱症患者も躁から鬱に移る時期が危ないという。
 人は皆バイオリズムを刻んでいる。
 同じく躁鬱の気もあるということになるのだろうか。

 頭の中を少しずつ整理する。
 今日は何をして、明日は何をするのかをただ確認するだけだ。
 無理して明後日のことを考えたりはしない。
 野球で言えば、来た球を振るだけのレベルに戻るわけだ。

 昼、かけうどんを食う。

 こうやって食った物を記録していくことも無駄なように思えて実は結構重要なのではないか。
 生きることを最も単純に定義すれば、それは食うことを軸に展開するからだ。

 夕方になると脳が再び考えることを始めたようだ。
 この辺が注意のしどころといえる。
 数日間ものを考えていなかったツケを一気に払うべく、許容範囲を越えた量の考え事をこなそうとしがちだからだ。
 ひたすら自制。

 小金井に帰る途中「フライデー」でビートたけしの記事を読む。
 第三の愛人発覚という見出しだった。
 「フライデー」がビートたけしのスクープをこのような形で載せるとは全く思ってもみないことだった。

 記事の論調は極めて慎重で、他の有名人をあげつらう時によく見られる揶揄・嘲弄の感じは微塵も見られず、そのことがかえってビートたけしのスキャンダル記事を載せることの暗黙のタブーというものをあぶり出しにしているように感じた。

 86年に起きたビートたけしの「フライデー」編集部襲撃事件はよく覚えている。
 事件が起こる直前のオールナイトニッポンで、「週間平凡」の記者が張り込んでいたのを捕まえて小突いたという話をしていたので、事件が起こった時それほど意外に思わなかった。
 あの頃のビートたけしは今のように安易なボケやコケをやらず、ただ普通に歩いているのを見せるだけで人を笑わすことができるほど、芸人として脂がのっている頃だったと思う。

 だが、それだけで放送を聞いていたわけではなかった。
 ごくまれに2時間の放送中のほとんどを、洒落にならないくらいマジメなトーンで語る人生論で埋めることがあった。
 そんな放送を思春期ど真ん中の連中が聞いていたわけだ。
 俺もその一人だ。

 別に洗脳されたとか言いたくはない。
 たけしの放送でなければあそこまで前のめりに聞いたりはしなかったはずだ。
 が、30代になり分別もついた今の時点でバリバリ現役のビートたけしが存在している事実を、もしも自分がたけしファンでなかったらという仮定の下に考えてみると、ちょっとおかしいと思う。
 おれらがオールナイト聞いてた頃のたけしが今の自分を許せるとは到底思えないからだ。

 NHKが毎年するタレント好感度調査で、ビートたけしは30代男性の間では1位だったと思う。
 今の30代はたけしのオールナイトニッポンを中学高校の頃に聞いて育った世代のはずだ。
 毎週木曜日のあの放送で、今の3倍ほどのスピードで喋るたけしの言葉をミルクのようにごくごく飲み下して育ったために、たけしを否定することはおのれの成り立ちを否定することにつながるのかもしれない。

 だがしかし前に進むためにはこのままじゃいけないのだ。
 ビートたけしを見捨てなければいけないのだ。
 もちろん俺たち世代でもたけしが嫌いな奴らは沢山いるわけで一緒くたにはできないが。

 「フライデー」は大嫌いだが、自分の中での節目に使わせてもらうことにしよう。
 明日からおれは、元・ビートたけしファンだ。
 訂正すれば、元・ビートたけしの熱狂的ファンだ。