徐々に火がつきはじめる

 いつの間にか連休が間近ということで世間は浮き足立っていた。
 芝居の稽古が進むにつれ世間様との折り合いがつかなくなるのは毎度のことだ。
 これでいいのだろうかと自問するのもまた毎度のことだ。

 「これでいいのだ」と開き直るだけのテンションがある時は芝居に関して迷いがないといえる。
 反面、独りよがりの芝居を作ってしまいがちでもある。

 自信はいいことだと思う。
 ただ持ち過ぎると腐ってしまう。

 すべてはバランスの上に成り立つ。
 なんてことを書く今日の俺は少々「訳知り」風味で嫌みがある。

 人は皆躁鬱だとかつてモチメは言っていた。
 100%同意はしかねるが、答えがそっち方面にあることは間違いないと思う。

 自分もその気質がある。
 たまにプチ引きこもり状態に陥ってしまう。
 そしてたまにわけもなくテンションが高くなる。

 昨日の稽古場で中山君に言われた。
 「落ち込んでるのによくそんなに喋れますね」
 それはきっと稽古場にいるときが「躁」だからだ。

 というわけで、夕方7時に大和地域センターへ行き、稽古の形を借りて躁状態を味わった。

 阿部さんが体調を崩し休み。
 3月からずっと気を張ってきたためだろう。
 彼女抜きで「粗忽」の稽古をする。
 中山君と鶴マミの喧嘩シーンをつくる。
 ムキになればなるほどおかしいという路線を探る。

 続けて「夏の子」稽古。
 はじめのシーンから少しずつ修正を加えていく。
 こういう作業は一度始めるときりがないのだ。
 というよりも、修正が必要でなくなるということは絶対ない。
 そんなことはありえない。

 かといって修正をせず自然に任せるのもいいはずがない。
 それは演劇じゃない。
 原っぱに草ぼうぼう、というやつだ。

 メソッドで有名なリー・ストラスバーグはかくのたまった。
 「活字の不自然さがあって肉体の自然さがある。どちらが正しいという訳ではない。その二つを埋めていく作業にこそ俳優を芸術家たらしめるものがあるのではないか」
 若かりし頃のおれはそれを聞いて思わず「ワオ!」と叫んだとさ。

 今のおれは修正をきまじめにやるように心がけている。
 ただ、修正が芝居をよくするとか、そういうことは考えないようにしている。
 降りかかる火の粉を払うように修正をしている。

 稽古終了後、高円寺の駅までゆっくり歩く。
 躁から鬱へ。
 動から静へ。
 火から水へ。