アメリカチームは得体が知れない

 仕事の間、台本の清書を盗みながらやった。

 前回公演の千秋楽が5月5日で、次の週に制作の話し合いをし、月末にもう一度話し合いをした。
 その間ずっと台本の構想をたてていたわけだが、資料をあさればあさるほどいわゆる作劇というものから離れていくような気がして、6月に入ってからはかなり焦っていた。

 ただ単にスランプだとかそういうのは経験があるが、今回の場合はちょっと違うような気がする。
 正直なところを言えば、なぜ今のテーマで台本を書いているのかよくわからない。
 そこに自分の意志があるわけではなくて、テーマそのものに書かされているように感じるのだ。
 見えない力が働いているのだろうか。

 昨日あたりからようやく言葉が出て来るようになった。
 役者のおかげだろう。
 こうして仕事中にも清書ができるというわけ。

 夕方、三鷹駅で望月と一緒の電車に乗る。
 武蔵小金井に向かうまで、サッカーのアメリカチームについて話す。
 「あそこはよくわかりませんね」
 「もしもメキシコに勝ったら?」
 「…イヤですね」

 サッカーファンである望月にとって、得体の知れない勝ち方をするアメリカチームの存在は、強さの基準を揺るがすものになってしまうのだろうか。
 あの国のサッカー人気が他国に比べてそれほど高くはないことも、アメリカチーム嫌いの理由になるかもしれない。

 ただ、かの国がスポーツ大国であることは事実だ。
 もしかするとアメリカ代表チームの面々は、サッカーではなく他の球技のノウハウで戦っているのではあるまいか?
 彼らがボールを追う姿はサッカーっぽくないような気がする。
 他のチームと戦ってもなんだかものすごくかみ合わない。
 でも、勝つ。
 そして、負ける。

 小金井の本町分館で稽古。
 ここを使うのも「断末魔の轟木氏」以来。
 そしてあの時はシドニーオリンピックをやっていた。
 サッカー日本チームを応援していた。

 和室での稽古。
 松井智美と阿部さんのシーン。
 智美には「大人」を演じてもらいたいのだが、類型的な「大人」になることだけは避けたいと思っている。
 「大人」は、目に見えるものだろうか?
 違うと思う。
 見えてしまうものならわかるけど。

 その後、マミちゃんと望月で回想風のシーンを色々やってみる。
 どういう気持ちで過去に対するかによってシーンのムードがガラリと変わるので、あくまでも淡々とするように気をつける。

 稽古後、阿部さんが質問してきた。
 「(私のやる)エリはどういう子なんですか」
 一言で答えられるような子ではないので、わかる範囲の事を説明した。
 「つまり、自分の中の何かがある時点で欠落してしまった子だね。その欠落は愛情かもしれないし憎しみかもしれないしあるいは怒りかもしれないし。とにかく体の器官みたいに必要だったものなんだ。それがない状態は、エリにとって本当の状態ではないわけで、だから今、エリがどういう子なのかは、俺もわからないんだよな。エリ自身もわからないわけだから」

 説明しながら、なんて難しいことを求めているんだろうと思ってしまった。
 口に出すとこれだからいけない。
 本当はもっと単純なのに違いないのだ。
 ただ、宝の地図がない以上、そこら中を掘り回るしかないのだ。