エチュードをどう考えるか

 昨日の夜はなぜか実家でプリンを作った。
 コーヒーを飲んでいて甘いものが欲しくなったのだ。
 卵と牛乳と砂糖を混ぜ、蒸すだけ。
 カラメルは砂糖を水に溶かし、鍋を揺らしながら焦がす。
 食ってみたら結構うまかった。
 しかしこの材料はミルクセーキやアイスクリームと同じだ。
 配分の割合が違うだけだけだろう。

 夕方、沼袋で稽古。
 30分近くマラソン。

 久しぶりにエチュードをした。
 それも、自分が見る側ではなく演じる側にまわってのエチュード。
 マミちゃんとのシーン。
 喋りまくって追いつめると彼女は、
 「そんなに追いつめないで!」
 と号泣してしまった。
 それでも繰り返してエチュードをする。
 台本を書いたのは俺だから、舞台設定に色々なイメージがあるのは当たり前だ。
 演じるマミちゃんは与えられた台本以外の情報がないから、台本の設定をつかったエチュードをすると、言葉が出てこなくなる。
 しかしこれを繰り返すと、世界観がだんだんと共通のものになってKる。
 そこに至るまでが苦しく、疲れるし大変だ。
 答えを出すつもりでやると失敗する。
 俺が今生きていることに答えがないのと同じくらい、登場人物がそこで生きていることに答えはない。
 正しい正しくないはない。
 <ただ生きてりゃ>いいのだ。

 もしこれがワークショップならば、
 「みんながやるこのシーンの間取りと地図を、出来るだけ詳しく紙に書いてください。それからみんながやる役の履歴書と家族構成も書いて下さい」
 なんてことをやるだろう。

 片桐と健ちゃんのシーンはエチュードではなく台本から動きを作る。
 片桐の役は殺し屋。
 正確には殺し屋ではないのだが、ある意味殺し屋。
 二人の出る最初のシーンは言葉遊びの要素が強いため、動きと台詞がきれいに一致していないといけない。
 だから台本から手を離さないと本格的な作り込みはできないだろう。
 ジェスチャーをして、遊べるポイントをどんどん増やしていく。
 動きのアイディアは使えるものも使えないものもどんどん稽古で採用する。
 本番で5つの動きを使う場合、稽古では20くらいのパターンを用意しておく。
 ネタとして使い回すのではなく、その人物が生きる上での選択肢として機能すれば一番理想的だが、そこまで行くのはなかなか難しい。
 役者同士の呼吸が必要になるし、世界観の共有もしっかりしてないといけない。

 映画「どん底」で、本番の撮影中千秋実さんの草履が切れた。
 しかし千秋さんはそのまま草履のひもを直しながら演技を続けた。
 黒澤明監督は、
 「こういう芝居が欲しいんだよ」
 と満足げに語ったというが、役者が舞台の世界観をちゃんと持つとはこういうことだろう。
 台本の予定通りにいくとは限らない。
 では、予定外のことが起きたら、それを何とかするのは誰か?
 <役>か?<役者>か?
 俺は、<役>だと思う。
 そして<役>がどうにも出来ないことをサポートするのが、<役者>なのだと思う。
 きっかけに関することとか。
 舞台の世界観に関係ない小道具のこととか。

 稽古は10時直前に終了。
 帰り道、沼袋商店街で桃と米酢を買う。
 11時過ぎ帰宅。
 シャワーを浴び、三里に灸をすえる。

コメント

  1. クリエイティブ・テンションと「生きる」

     監督、黒澤明の「生きる」という映画がある。
     ハリウッドでリメイクされる予定らしい。
     志村喬の役はトム・ハンクスだそうだ。
     ・・・それはおいておいて…