「シガテラ」3巻読む

 「シガテラ」3巻を買った。
 <谷脇>が<森の狼>に捕まり、脱出するまでが収められている。
 連載中すべて読んでいたのでストーリーは知っていたが、まとめて読むと充実した読後感があった。

 1巻での谷脇は理不尽な加害者だった。
 3巻での彼は、森の狼に監禁された被害者になっている。
 森の狼は、世の中のどうしようもない連中を見つけ出して殺すことに生き甲斐を見いだしている。
 まるで「ヒミズ」の主人公のように。

 谷脇の描かれ方は大変興味深い。
 監禁され散々暴行を受けた後、かつて自分がいじめた<高井>に助けられ、
 「お前の金もさんざん取ってたし、まあ、こんなもんじゃないの?」
 と言ってのけるのは、恐ろしく自分を客観的に見ている証拠だ。
 そして誰の助けも頼まず、一人バットを手にして森の狼と立ち向かう。
 そこに感情の揺らぎはまったく感じられない。
 現実を認識し、自分でなんとかするというハードボイルドな生き方が、<ろくでもない奴>である谷脇によって演じられることで、主人公及び読者は匕首を突きつけられている気分になる。

 世の中にはどろどろした闇の部分があるが、そういった部分が自分とは関係がないように人は思いたがる。
 しかし世の中に属している以上、永遠に無関係でいられる保証は決してない。
 もしも食らいつかれたとして、それでも関係のないことであるかのように振舞えるだろうか?
 もし食らいつかれたのが自分ではなく、近しい人であったらどうするのか。

 主人公の<荻野>はそういう意味で、読者と近い立場にいる。
 彼はごく普通の高校生だ。
 美人の彼女ができて、念願のバイクも手に入れた。
 その生活と紙一重のところに、森の狼の狂気がある。
 この怖さは、<現代>そのものだ。
 手を伸ばせば届くところに狂気がある。

 荻野はそうした狂気を受け入れることが出来ないでいる。
 谷脇の彼女は荻野に言った。
 「なんか、ズルくない?」
 何気なく発せられたその言葉は、日常に偏在している狂気を受け入れることの出来ない荻野の(そして読者の)怯懦を鋭く指摘しているように思えた。

 この作品はある日唐突に終わるのではないだろうか?
 結末で納得する類ではなく、そこに至る過程が重要な作品だからだ。
 そして、この作品で全力投球できて初めて、作者の古谷実は色々なものから自由になれるのではないだろうか?

 「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいる。
 毎年秋になると必ず読み返している本なのだ。
 ところが今年は、読んでいて感情移入できなかった。
 去年までは毎回必ず新しい発見があったのに。

 読み手としての自分が少し変わってきたのかもしれない。
 いい方に変わったと思いたいが。

 感情移入できなかったとはいえ、面白い部分はたくさんある。
 今年は牛川のシーンが素直に楽しめた。
 本当はもっとドロドロした印象の人物になる予定だったと思わせる描写があるが、牛川本人の語り口が面白くて、奇妙に魅力あふれる人物になってしまった。
 現実にいたらそうは思えないかもしれないが。

 夕方、中野へ。
 健ちゃんの幼なじみで、映像をやっている松島君とサイゼリアで会う。
 10月から撮影をするらしく、協力をいろいろ頼まれたのだ。
 1時間半ほど話す。

 10時帰宅。
 お好み焼きを焼いて食べる。