『弥勒』で、わからなくなるということを考える

 一夜明け、体調は回復。
 やはりよく寝ることが大切ということか。

 篠田節子『弥勒』読み終える。
 高邁な理念に支えられた革命が、現実との乖離によって空論と化し、理論を実践する兵達が醜悪な弾圧者となっていく過程が、身も蓋もなく描写されている。
 読んでいくと、なにが正しくてなにが正しくないのか、わからなくなってくる。
 結局、そうしたことは<わからないこと>なのか?
 弥勒像は、<わからない>という不安定さにぐらつく人間を支えるため存在しているのか。
 わからない。

 ハードな読後感は5年前と変わらない。
 が、読み手を選ぶ本であるということは間違いない。
 「結局、どうすればいいの?」
 と、何らかの答えを求める読者に、この本が与えるものは解答ではないからだ。

 わからなくて、いいんじゃないか、と思う。
 わからなくていいんじゃないかなんて考え方でいいのかどうかもわからないが、わからなくていいんじゃないかなんて考え方でいいのかどうかもわからなくていいんじゃないかと思う。
 「何が言いたいのかわからない」
 という感想はずるい。批評した気になるだけだし。

 変な話だが、セックスにたとえるなら、
 「あなたの愛撫はなにがしたいのかわからない」
 なんていうダメ出しは、普通ないだろう。
 「それ、気持ちよくない」
 と言うべきだ。

 変なたとえにずれてしまい、何が書きたいのかわからなくなってしまった。
 要するに、わからないということは別に異常な状態でもなんでもないのだ。
 わかる人もいればわからない人もいる。

 『弥勒』の場合、話にわからないことは何一つない。
 だが、たとえば、
 (問い この作品で作者がもっとも強く訴えたかったテーマはなんでしょう?)
 などといった問題を自が自分に対して出題したりすると、
 (答え わかりません)
 などといったことになる。
 そのわからなさは、あとづけのわからなさだ。
 読者がかってに作り出したわからなさだ。

 『弥勒』の主人公・永岡は、既成の価値観を根底から壊され、何が正しいことなのか、何が間違ったことなのか、どんどんわからなくなっていく。
 だから、オレも、どんどんわからなくなっていっていいのだ。
 そのわからなさは、読み始めるまでは存在しなかったわからなさなのだ。
 わからないことが、わかった。
 それだけだ。
 あとは、荒れ地で風に吹かれた髑髏が転がるような、荒涼たる風景つきの読後感が、今宵のオレの供になっている。
 本を閉じ、うなる。
 うーむ・・・・・