虚構としての諸葛亮

朝、コンビーフと卵のサンドイッチを作って食べ、安く売っていたイギリス産のカップスープを飲んだ。
自分好みの味だったが、今日も売っているかどうかわからない。
そのまま2時間ほど眠り、昼に起きる。

柴田連三郎『英雄・生きるべきか死すべきか』上巻読む。
劉備、関羽、張飛亡き後の蜀を舞台としているから、当然主役は諸葛亮。

正直な話。
諸葛亮に魅力を感じたことは一度もない。
友達にも、上司や部下にも、したいタイプではない。
もちろん敵にもしたくない。
強いて言うなら、あまり関わり合いになりたくない。

物語における諸葛亮は、才気走りすぎていると思う。
傲慢に見えかねない。
むしろ、みすぼらしい格好をして侮られた、ホウトウの方が好ましい。
『蒼天航路』のホウトウは格好良かった。

諸葛亮の姓<諸葛>は、名門の姓だったらしい。
劉備が三顧の礼で迎えたのも、名門の師弟である諸葛亮が劉備についたという風評を大事にしたのだという説がある。

後漢代の中国は訓詁学が発展したという。
訓詁学とは解釈学だ。
つまり、先人達の遺した文献をどう解釈するかという学問だ。
中国は三国志の時代においてすでに千年以上もの文明の歴史を誇っていたのだから、解釈すべき文献も多かったろう。
三国志に出てくる<知恵>のエピソードは、先人の知恵の引用が多いと思うが、訓詁学の発達と関係するだろうか。

夕方、実家へ帰る。
風が強く吹き、寒かった。

実家にて、冷蔵庫をあさり、親子丼を作って食べる。
母親は性懲りもなく韓流ドラマを口開けっ放しで見ていた。
だが、『冬のソナタ』を三年前母に勧めたのはこの俺だった。
責められん。