森繁久彌の死

夜、雨が降ってきたのでジョギングはなし。
なぜか今日もグラタンを作る。
ホワイトソースのベースとなる、バターと小麦粉と牛乳の配分になれておきたかったというのもある。
具は、冷凍庫にあった野菜をすべて入れた。
マカロニの他に、インゲン、ほうれん草、タマネギなど。

森繁久彌が亡くなった。
少し前、入院したというニュースを知っていたし、お年もお年なので、驚きはなかった。

大正2年生まれであるから、黒澤明より3つ若い。
感覚としては、そうとう上の世代である。

早稲田大学在学中に東宝入社し、ちょい役から役者のキャリアをスタートさせる。
その後古川ロッパ一座を経て、満州の新京放送局アナウンサーとなり渡満。
敗戦後昭和21年に帰国。
仕事がなく貧苦にあえぐも、菊田一夫のコネで再び舞台に立つようになり、ムーラン、NHKラジオ、映画とトントン拍子に仕事が増え、昭和30年前後には押しも押されぬ人気俳優となる。
あとは、膨大な出演リストが、映画・舞台・テレビと時代順に続く。

『森繁自伝』『こじき袋』『見てきた・こんな・ヨーロッパ』
これら森繁久彌の著作を読み返すと、役者・森繁久彌はいかにして形成されていったのかがわかる。

渡満以前、すなわち戦前の森繁は、才気走るところがあり風当たりが強かったと、小林信彦『日本の喜劇人』にある。
東宝歌舞伎で「馬の足」をやらされた時など、憤然として上役に抗議に行ったりしたらしい。
いいとこの坊ちゃん育ちで豊かな少年時代を過ごしたことに加え、ほとばしる才気と青年期の気負いが、下積みの労苦を屈辱と感じさせたのかもしれない。

二十代の役者キャリアは、結婚し新京のアナウンサーになったことでいったん頓挫する。
満州では録音のため辺境に赴き、その時のルポルタージュは昭和17年の国定教科書に採用された。
器用さと喋りの巧さで、内地から慰問に来る芸能人の世話をしたり、順風満帆といえる出世街道を歩んでいたと思われる。

終戦後、新京はソ連兵の占領下に置かれる。
およそ1年あまりそこで暮らした体験は、いつ死ぬかわからない過酷なものであった。
『森繁自伝』によれば、アナウンサーだった経歴が災いしてスパイの疑いをかけられ、シベリア送り寸前にまでなったようだ。
新京が中共に引き渡された後、ようやく帰国の途につくも、手に職のない森繁にやれる仕事はまったくなかった。
四国の網元をだまくらかして、サバの闇商売を試みるも、南海地震で「カツオ節3本」の結果に終わったり、散々な目にあっている。

菊田一夫の口利きでようやく舞台の仕事をするようになっても、当時すでに三十代半ばで、遅れてきた新人もいいところだった。
二枚目・三枚目の役者は、自分が入り込む余地がないと判断し、森繁が目指したのは「二枚目半」の役所だった。
手本となる俳優は河村黎吉。
黒澤明の『野良犬』で、三船敏郎と一緒に女スリの取り調べをする刑事役を演じていた役者だ。

「映画界は沈滞していたとはいえ、スターは飽和状態であった」
「誰も私をワザワザ売り出してくれる奇特な旦那のいるわけではない」
「作戦をたてずに戦いをいどんでも、ただやたら精力を消耗するのみと悟り、毎日二流、三流の映画館をのぞいては、画面の中の役者を考現学的に統計をとることにした」
「河村黎吉さんという私の大好きな俳優さんの持ち味あたりが私に向いており、あの、二枚目でもない、また三枚目というにもどこか違っている?この人物の近所が少しばかり手薄なことを発見した。しかも、この人の重宝ぶりや、喜劇によし、悲劇によしということで、私のねらうところに一致した」
(『森繁自伝』)

河村黎吉の路線に<今日のリズム>を加え、森繁は<モリシゲ・ヒサヤ>売り出しの宣伝方針を固める。
以後まもなくして超売れっ子となるのだが、そのエネルギーは驚異的なものだったらしい。
映画の撮影を終えてから仲間内の劇団稽古に参加し、朝まで稽古をしたという。
いくら芝居が好きだとはいえ、なかなかそこまではできない。

『見て来た・こんな・ヨーロッパ』は、昭和35年にテレビ番組の企画でヨーロッパ旅行をした時のルポルタージュである。
パリを起点に、東西ドイツ、イギリス、オランダ、オーストリア、スエーデン、ポーランド、スペイン、イタリアを回っている。
番組がどういうものだったのかは知らないが、超人的な忙しさの中でよくもこれほどの旅行記を書けたものだと思う。
非常に興味深かったのは、西ドイツのハンブルグ滞在の話。
レーパーバーンの歓楽街ではしごしたとある。
1960年秋のハンブルグといえば、雌伏期のビートルズが演奏をしている。
その時期のビートルズに、地理的に最も近くにあった日本人が森繁というわけだ。
まさか演奏を聴いちゃいまいが。

突出していたのは、ルポルタージュの才能だろう。
エッセイのタイトルにもなっている『こじき袋』とは、ある日の用に足すため目にふれる一切のものを頭の中に入れておく袋のことらしい。
それらは演技の材料となる。
ルポルタージュに置き換えれば、取材ノートだ。
森繁久彌の演技は、人間観察というたゆまぬ取材による、形を変えたルポルタージュなのだ。

質量に比して「苦節」という言葉を感じさせない大らかさは、満州時代に培われたものだろう。
森繁久彌の成り立ちを考えると、やはり始原を満州時代に求めざるを得ない。
満州での体験があったからこそ、戦後の貧困を乗り越えられたのだろうし、超多忙の日々にあって演技の研鑽を惜しまぬ精神力が養われたのだろう。

最後の、満州人俳優が亡くなったと書くべきなのかもしれない。
享年96。
目一杯生きた人にただただ合掌あるのみ。