考えたからと言ってそれが見えるわけじゃない

7時50分起き。
昨日買ったパンをかじって仕事場へ。
午前中、いつも通り仕事。
昼、ゆで太郎へ。
コロッケうどんが食べたかったが、メニューにはなく、かきあげうどんにした。
食券を買った後、単品でコロッケがあることに気づいた。
かけうどんとそれを買えば良かったのだ。
買い直すのも面倒なので、かきあげうどんを食べた。

夕方、仕事を早めに切り上げ、5時前早退。
5時半に劇場入り。

炊き出しでいなり寿司が出た。
とても食べたかったので嬉しかった。

7時開演。
ドタバタするシーンは昨日より大人しかった。
昨日も、細かいところでは色々トラブルがあったらしい。
モニターを見ているだけではわからない。

自分の場面、ラストがまだしっくりこない。
妻に死なれ、泣きそうな気持ちなのはわかる。
泣いている場合ではない。

悲しんでいる父の姿を、子供達が過去の風景として見て、
「ああ、お父さんはそんなに、お母さんを愛していたんだ」
と思うことはわかる。

自分が作るのは、現在を生きるお父さんだ。
子供達がまだ幼いという設定を思えば、泣いている場合じゃない。
頑張ろうとする。
だけどやはり寂しい。
何かを振り払うために叫ぶ。

そこに涙はないはずなのだ。
泣かないために叫んでいるのだ。
本当は叫ばないに越したことはないのだ。

今やっているのは大した叫びじゃない。
絶叫には遠く及ばない。
それでも、叫ぶという動作を入れないと、矛盾を抱えたままラストシーンを迎えてしまうような感覚がある。
それを振り払うために、一回だけ叫んでいる。
その苦しみの核心みたいなものが、もう少しで見えてきそうなのだが。

たぶん、ラストの自分の場面は、台詞と出番が多すぎるのだ。
出てきて、ただ檸檬の木を見てるだけで成立するべきものなのだ。

今日の回では、家の中に母以外誰もいないような気がした。
誰もいないのに、地図作りでつながっている娘の名前を叫んでいるのではないか。
むしろ娘がいるとわかっていたら、叫ばないのではないか。

いないから叫ぶ。叫ばずにいられない。
そういう息子の姿を見ている母という構図。
ひっくるめて、子供達の知らない、父の別の一面。
これが、ラストの回想場面の意義だろう。

そういった諸々の考えは、外側から見てわかるようなものにはならないだろう。
だが、考えた末に演じると、何らかの醸された空気が出来る。
その空気は、考えを深めないと出てこないもののはずだ。
引き続き考えてみる。
明日、もう少し奥へ行きたい。

優都子ちゃん、美佐穂さん、安見君、清水、榊原、平木くん、大久保さん、こずえさん、団さん来る。

「塚本さんが叫ぶのを見るのを初めて見ました」
と優都子ちゃん。
清水と榊原は、
「まあ、色々、今度、話を、ゆっくり」
といいながら帰って行った。

終演後、平木くん、知恵と三人で飲む。
平木君は、演出の方法論や考え方について質問をしてきた。
どう答えていいかわからなかったが、自分がどうやっているかに限定して話す。
知恵は、
「悩むのやめたんです」
と言いながら、手羽先にかじりついていた。

芝居をいいものにするために、自分一人ではなく全体を考えるために役者が出来るのはどういうことかについて話す。

12時に店を出る。
1時帰宅。

キース・リチャーズ『ライフ』読了。
キーズに散々語ってもらって、それを時代順に並べ直したような本だと思ったが、語り口が面白く、抜群の読み応えがあった。
80年代中期、ミックとの確執があった頃が特に面白い。
「おれのドラマー」
と言われて憤慨したチャーリー・ワッツが、ミックにパンチを見舞った話など。
これは以前、他人が書いたキースの伝記にも書かれていたエピソードだ。
その本では左フックを見舞ったとあったが、『ライフ』によると左ではなく右らしい。
どっちでもいい話だが。