荒涼としたもの

夕方まで仕事。
ルーティンワークの合間に打ち合わせをしたりする。

夕方実家へ。
甥が来ていた。
三兄弟の次男坊ひとり。
家族で富士山登山に行っており、彼は「行きたくなかった」らしい。
それで両親の、彼にとっては祖父祖母の家に泊まっている。

食事中、母が「あれ食べろ」「それ残すな」と口にするのを、甥は「うん」「わかった」と、言葉だけは従順な感じで受け答えしていた。
だが、声の響きはうつろで、心がまったくこもっていなかった。
物心ついてから何千回となく言われ続けてきて、心が凍ってしまい、感情のないロボットとして反応することで、この場を生き抜いているようだ。

食後、部屋の隅っこで、PSPをしていた。
両親からは「ゲームばっかりやって、他人とコミュニケーションをとろうとしない」ように見えるのかもしれないが、寝室と居間はテレビがつけっぱなしで、一体どこに行けばいいというのだろう。
自分の小学生時代だったら、勝手に外で遊んだりできたが、どうやら見た感じでは、行き先をいちいち告げずに外へ遊びに行く自由はなさそうだ。
せめてゲームでもやらないと、間がもたないだろう。
そもそも、どうして富士山登山を、彼が行きたくないと思ったのか。
彼の中に何か、荒涼としたものを感じる。

「俺のことはほっといてくれよ」

そう言いたいんじゃないか。
たぶんそうしてやるのがいいんだろうな。
でも両親は、何かをせずにはいられないんだ。
だから、余計なことをつい話しかけて、断絶の溝をどんどん深くしていってるんだ。
ひと言も口聞かなくていいから、ただそばにいて飯作って、気遣いは目の端っこでするようにして、たまに二言三言会話して、そんなことを辛抱強く長く続けていけば、彼は俺が、余計なことを言わない奴というふうに認識するだろうか?

とにかく、「おじさんは余計なこと言わない」という、そんな存在になりたいと思った。
挨拶さえ、しなくていい。今は。
お袋に促されて、機械的な声で「こんにちは」なんて言うのを聞くと、胸が痛い。

そんなふうに色々なことを思う。

ギターの弦高を調整する。
レンチでネックの反りを直す。
かなり大きく反っていたので、それだけで抜群に弾きやすくなった。
リサイクルショップで、捨て値で売られていたボロボロのギター。
売った人はきっとギター初心者で、練習用に買ったのだろう。
だけど、もしも弦の高さが前のままだったら、コード一つまともに押さえられなかったに違いない。
「俺には向いてない」とあきらめて、売ってしまったのだろう。
楽器屋で店員さんに相談しながら買えば、そんなことなかったろうが。

部屋にいると息苦しくなり、外に出てその辺をぶらぶら歩いた。
暑かった。

帰宅すると、父が「リング」を見始めていた。
以前も見たことあるはずだが、忘れているとのこと。

風呂に入る。
ぬるめのお湯にゆっくりつかる。

上がって居間を覗くと、映画は石原裕次郎の日活映画に変わっていた。
「リング」は終わっていた。
「やっぱり恐かった。しばらくこのシリーズは見られん」
とオヤジは言った。
隣の部屋の観葉植物の近くで、PSPをやっている甥がちらりと見えた。

台本を少し書くが、自分の中にある色々なものが欠落していて、途中で文字がまったく打てなくなってしまった。
パソコンをとじる。

夜中の3時だった。
最後に2時前に寝たのはいつだろう。