イエスシアター「ミラー」観劇

朝、ホットドッグ二つ食べる。
ソーセージがひとつ焼き余ったのを、フライパンに置きっぱなしにして家を出てしまった。

昼、「荒海」でつけ麺の野菜増したべる。
野菜の量がものすごいので、麺を普通、というか、少なめにする。

夕方、武蔵関へ。
ブレヒトの芝居小屋にて、東京演劇アンサンブルと、イエスシアターのコラボレーション公演「ミラー」観劇。

イエスシアターのことはまったく知らなかったが、毎日新聞のサイトで紹介記事が載っていて、興味を持った。
記事では演出家が、演劇はソフトな抵抗、と言っていた。

表現が過激になったからといって、本当の力を持つわけではない。
世の中の不条理、政治の腐敗、それらに対する怒りを激しい身振りや尖った言葉で表現しても、不条理は不条理のままあり続け、腐敗の進行は止まらない。
それでも、怒りが強ければ強いほど、作り手はその感情に揺さぶられ、誰かの罪を糾弾し、何かを倒そうとするかのように、言葉を尖らせる。

その状況に陥るのがイヤさに怒りから目をそらし、関係のないことを表現のテーマに選ぶことはしたくないなあ。
でも、怒りに我を忘れて、暴走したまま芝居づくりをするのもいやだなあ。
どうすればいいんだ。
とまあ、ここ数ヶ月というものずっとこんな感じにウジウジと悩んでいたのだ。
そこに、ソフトな抵抗という言葉だった。すぐにチケットを予約した。

ブレヒトの芝居小屋に来たのは初めてだった。
想像していたより間口奥行きが広く、タッパもあった。
席はほぼ満席。

静かな曲で始まり、役者が出てきた。
キャストのひとりが来られず、芝居ができないとこぼす。
そこから、即興劇から構成したような寸劇とモノローグ芝居が続く。
パレスチナ人の役者がひとり出ており、彼がセリフを喋る時は舞台奥のスクリーンに字幕が表示された。
字はそれほど大きくなく、暗かったので、まったく読めなかった。

日本人俳優達の芝居が続くが、テーマがよくわからず、前半はあまり面白くなかった。
在日朝鮮人の女優さんが、在日の寄る辺なさを愚痴っぽく語るところから面白くなってきた。
パレスチナ人が彼女に、慰めるように扇子を渡す。
彼女が礼を言ってそれを開くと、日の丸が現れる。
このアイロニーが実におかしかった。

ラスト近く、パレスチナ人と日本人達が手をつないで踊る。
異なる文化を持つ民族が、手を取り合っている見た目は、いかにもエンディングっぽいなあと思っていた。
突然動きが止まり、そこはパレスチナの、イスラエル軍検問所になった。
日本人俳優たちはパレスチナ人となり、いくら待ってもなかなか通してくれない検問所の前で列をなす。
中には妊婦もいるが、兵隊は一切頓着しない。
ついに彼女は産気づく。
周りにいた男たちが、衣類や身にまとった布で壁を作り、女たちは出産を手伝う。
やがて赤ん坊の泣き声。
布が取り払われると、女が立っている。
そしてセリフを言う。
こういうことは日常的に起こっていること。
それにも関わらず、命は生まれてくるということ。
美しい言葉だったが、そのくらいの言葉ならば、優れた脚本においてお目にかかることはあるだろうとも思った。
しかし、日本人が瞬時にパレスチナ人を演じる、切り替えの演出は、魔術的効果があり、見ているこちらも検問所の前に瞬間移動させられたような気になった。
女のセリフは、誰かを責めるわけでもなく、運命に耐え忍ぶというわけでもない、純粋に命への賛歌のようだった。

終わってからアフタートークがあったが、舞台から受けた衝撃をこのまま持って帰りたかったので、すぐ劇場をあとにした。
武蔵関から荻窪行きのバスに乗り、青梅街道の見慣れた通りを走った。
丸ノ内線線に乗り新高円寺で降り、家に着いたのは10時前だった。
感想をまとめようと思ったが、考えがあちこちに飛び、なにも書けなかった。

フライパンに置きっぱなしにしていたソーセージをごみ箱に捨てた。