疲労者

昨日は12時前にいつの間にか寝ていた。明け方起きてうとうとし、明晰夢を2時間ほど見た。芝居の夢。自分の出る場面に長めのひとり芝居があって、起きたら自主練しようと思っていた。実際に9時に起きて、ああ、夢かと思ったが、その場面はけっこう面白くなりそうだったので残念に思った。

カレーがまだたくさんあったのでご飯を片手鍋でささっと炊いた。ふと、フライパンで炊いたらどうなるかなと思った。で、二合炊いてみた。玄米を混ぜているので、鍋で炊くと粘り気のある泡が吹きこぼれる。フライパンなら大丈夫かと思ってやってみたが、しっかり吹きこぼれた。

朝飯にカレーライスを食べ、洗濯をし、洗い物をした。

午後、阿佐ヶ谷へ。自転車ではなく歩いて出かける。時間をかけてゆっくり行った方が心身のリハビリになるんではと思った。
晴れていた。空気が澄んでいた。食堂に猫がいた。

ブックオフへ。ヘミングウェイ『武器よさらば』の高見浩訳と、西村賢太の文庫本2冊を買った。

店を出る前、田中圭一『うつ抜け』を立ち読みする。内田樹のエピソードが載っていた。離婚、転居、阪神大震災。仕事と子育ての責任感。大丈夫だと思っていたけど、精神科に見てもらったら、ボロボロですと言われた。デパス(だったか?)の服用量が増えてきてあせった。などなど。

なるほどなあと思って本を閉じた。人は誰でも、いっぱいいっぱいになるのだ。

オレ自身、今年はうつじゃなかった。でも去年の11月はうつだった。3年前も4年前も5年前もうつになった。薬を処方してもらうこともあったし、瞑想や運動や断食で何とかすることもあった。

どの時も死にたいとは思わなかった。ただし、夜、疲れ切って眠るとき、寝ている間に死んだら楽になるかな、とは思った。
麻薬を試したことはないが、手を出す人の心理は、そういうわけでわからなくもない。

怒りのパワーをものづくりに転化することもあったが、これは頭の中でどんどん、あいつは許せない、こいつも許せない、と、敵を増やしていくことになり、頭がおかしくなってくる。

楽しくやって、なおかつ、作りたいものを作れたら最高だが、自在に作れないからこそそれは「作りたいもの」なのだろう。なんとか苦労して作る過程が、楽しいだけのものであるはずはない。「そういうのも含めて楽しい」じゃなく、死にたい苦しみはついてくる。その死は、新しいものを作る「生」と相対するものかもしれない。

南阿佐ヶ谷の靴流通センターがあったビルが、建て替え工事をしていた。「書原」という本屋もなくなっていた。今年の5月にはまだあった。そのあと工事が始まったらしい。何度も通っていて気づかなかった。今年の夏は風景の変化に気づけない日常だったのだ。いい夏じゃなかった。でも、いい夏だろうと、悪い夏だろうと、夏は夏。積み重なった過去の夏には、オレという人間を作った沢山のエピソードが詰まっている。

図書館に寄り予約した本を借りる。10月から改装工事をしていて、臨時窓口で受け取った。係員は大変そうだった。サラ・ウォーターズ『黄昏の彼女たち』上下巻借りる。『茨の城』『半身』『夜愁』と続けざまに読んだのは10年ちょっと前だ。『夜愁』で、エピソードの時間が逆順になっているのを、マグの公演『1:1』では真似をしたものだ。エピソードそのものは真似してないけど。

夕方、サミットへ。生牡蠣、らっきょ、福神漬け買う。夜、カレーライス。三食連続だが、はまぐり出汁のカレーは飽きない。

ウィンドウズ10のアップデートをするために、ビデオカードを取り外し、ドライバを削除してみた。しかし、何べんやってもアップデート寸前で失敗し、元のパージョンに戻されてしまう。どうなっているのやら。

顔の死相、引っ込んできた。疲労者レベル。