相容れぬ監督と役者
2003年4月25日 金曜日
6時に目が覚めた。
昨夜、マラソンをするかどうか迷ったまま眠った。
今朝は早起きして同じ悩みを悩んだ。
しかし外は小雨がぱらついていた。
早めの朝飯を食い、二度寝をした。
夕方まで雨は降ったりやんだりしていた。
梅雨寒に似ている。
長袖を着ていなければ寒いだろうが、上着を着ると結構蒸し暑い。
そんな感じ。
昼、「小津安二郎全発言」を図書館で読んだ。
溝口健二監督との対談で「溝さん」と呼んでいるのが新鮮に感じられる。ほぼ同期だから当たり前か。
「小早川家の秋」で森繁さんのカメラテストを10回も繰り返させた話が載っていた。
1961年当時の森繁さんは全盛期だから、鼻息も大変荒かったのだろう。
10回もテストを繰り返され、へとへとになったと書いてある。
この二人の芝居観は相容れなかったようだ。
かつて勝新太郎が黒澤明監督の「影武者」を降板した(された?)のは、芝居を監督のものにされることの不満があったからだろう。
どちらの考えが間違っているとかいう問題ではない。
役者にも監督にも、相手に芝居を求めるタイプと自分から芝居を求めるタイプの二つがあるということだ。
マグネシウムリボンでの稽古を思い返すと、自分から芝居を求めるタイプの役者さんは肩すかしを食らうことが多いようだ。
ここら辺は駆け引きでもある。
演出としてはそう簡単に芝居を決めて欲しくないし、役者としては早く芝居を決めて役を作り込んでいきたい。
そんな役者に自由を与えつつ、だましだましこちらの願う方向へ近づいてもらうのが、演出の醍醐味でもある。
目的地にたどり着くまでに経験した寄り道が、思わぬ「お土産」になるのだ。
説明の付けられない「良さ」とか。
そのためには難破船の如く彷徨うこともある。
役者に
「どうして欲しいんですか」
と聞かれても、
「自分で考えて下さい」
という答えを出すわけにはいかないし、
「好きにしていいよ」
という答えも駄目なのだ。
駄目出しなどで「君はこれこれこういうタイプだから、こうするべきだ」と断定口調を使うのは、それが真実であるからではない。
その断定口調に催眠効果があるからなのだ。
同じく役者を否定する駄目出しで「これこれこうだから駄目だ」という言い方も、役者に「悪いところを見つけてもらった」という錯覚を与える催眠術の一つに過ぎない。
もちろんある程度は当たっていることを言うのだろうが、ひと言だけで済んでしまうほど簡単な問題ではないはずだ。
芝居も、人間も。
夕方、アジを買い刺身にする。小さいながら6匹で198円と安かった。
夜、親子丼と煮しめ。
その後酒を飲みつつアジの刺身を食べる。
