朝青龍は第二の北尾になるのか?
2003年5月20日 火曜日
昨日の旭鷲山戦で見せた態度が原因で、横綱朝青龍の品格が問題になっている。
こういう時、相撲はやはり「国技」なのだなあと実感する。
「国技」すなわち「日本国技」である。
スポーツとしての相撲は決してインターナショナルなあり方ではない。
そして力士も単なるファイターではない。
むしろ番付が上がれば上がるだけ、ファイター以外の要素を求められる。
シャーマンに近いかもしれない。
土俵という祭祀場で、力士という肉体を通じて神と触る。
そういう要素があるのかもしれない。
だから昨日の朝青龍が見せた態度に、日本人は何か神聖なものを侮辱されたように思うのかもしれない。
ほかの格闘技と随分違うところだ。
問題なのは、外国人力士を入門させることで祭祀的な要素にどういう影響があるのかを、相撲協会が考えていなさそうなところにあると思う。
入門時は競技、そして横綱になったら祭祀。
これでは外国人にとって、新興宗教に引っかかったようなものではないだろうか。
外国人力士を横綱に昇進させたり、女性を土俵に上げたりすることの是非を問うなら、相撲が「競技」なのか「祭祀」なのかに白黒をつけた方がいいと思う。
そのあたりの曖昧さが通じるのは日本で育った日本人だけだろう。
だからこそ相撲は「国技」なのだともいえるのだが。
朝青龍を譴責し、謝罪させ、心を入れ替えさせたところで、本質的な問題解決にはならないと思う。
「わたしの渡世日記」読了。
上質の自伝だった。
小学校もろくに通えなかったため、読み書きをほとんど独学で覚えた人だが、文章の呼吸はお見事としか言いようがない。
教育について深く考えさせられた。
両親が離婚し、そのどちらからも引き取るのを拒否された小学生の話を、少し前新聞で読んだ。
その子はしばらくマンションの一室で、たった一人で暮らしていたらしい。
教師達が父親と母親それぞれに電話をし、毎日のように養育問題の話し合いを求めたが、二人はそれぞれ新しいパートナーを見つけ、連絡のつかないところへ引っ越してしまった。
少年の祖父母は老齢で経済的に引き取るのが難しかったが、そのような状況ではやむを得ず、孫を引き取ることになった。
その少年は辛い顔を見せることなく健気に登校していたが、卒業式を迎えた日、保健室に飛び込んできた。
養護の先生が驚いて事情を聞くとその子は、
「僕、こんな汚い服で卒業式に出るのはいやだ!」
と泣きながら訴えたそうだ。
周りの友達は綺麗な服を着て卒業式を迎えているのに、自分だけ普段着みたいな服を着ていることが耐えられなくなったらしいのだ。
ここで、人間の中身は服で決まるものじゃないとか、卒業に服は関係ないとかいう説得を試みるのは、無慈悲だ。
確かに正しいかもしれないが、その言葉では救えない。
じゃあ何を言ったらいいのか?
もしも自分が教師だったらどうするだろう。
考えてみたが、何も言えない。
離婚した両親が親のエゴで子供をないがしろにしている。これはもちろん悪い。
が、それを言うのはただの責任追及だ。言ったところでどうしようもない。
たとえば卒業式にどちらかが出席できるようにしたとしても、あるいは卒業式に着る服を用意させたとしても、その場限りの対処療法に過ぎないわけだ。
その子は結局担任の教師に連れ戻され、始終うつむいたまま卒業式に出席した。
この担任が無慈悲だと決めつけるのも浅はかだろう。
「教育」というものが誰かを救ったりする、あたかも「生き物」であるかのように考えるのがそもそも間違っているのではないだろうか。
「教育」はただのシステムに過ぎず、人を生かしもすれば殺しもする。
だから「教育の荒廃」というお題目をとなえて教師を糾弾するのは、魔女狩りだと思う。
もしも所属しているシステムから完全に自由になった上でその子と向き合うことができたら、少しは役に立てるかもしれないと思う。
完全に自由になるということは、きっと「ひとりになる」ということなのだろう。
「人間はしょせん一人だ」という紋切り型の表現があるが、「一人になる」ことで初めて何か出来るということもある。
自由のずっしりとした重みや価値を本当に理解できるのも、一人になった時だけなのだと思う。
