葱と鶏肉をフライパンで炒め、醤油で甘辛く味付けしたものを、昨日の夜に作っておいたのだが、今朝食べてみると味付けが薄かった。
日本酒があれば、焼き鳥のたれみたいな味になるのだが、最近日本酒を買っていない。
買ったとしても飲んでしまうので、調味料として使われる配分はごくわずかだ。
昼はカップラーメンで済ませ、夜は麻婆豆腐を食べた。
今年の食生活は、朝と昼に炭水化物を取り、夜はたんぱく質を取る傾向がある。
特に夜は、ご飯を炊かないことさえよくある。
ただ、炭水化物が不足すると、明らかにスタミナ不足になる。
動いてみればわかる。
UWFのビデオパッケージに、高田に負けた前田日明が食事を炭水化物中心に切り替えたと書いてあった。
「栄養学まで考えて試合に臨んでいるんだ」
と、当時は素直に感動していた。
今じゃ当たり前なのかもしれないが。
最近再びプロレスの試合が見たくなってきた。
今のプロレスではなく、昔のプロレスだ。
1980年代後半から、90年代半ば過ぎまで。
その頃が一番熱心にプロレスを見ていた。
前田日明の昔の試合をビデオで見た。
UWFが新日本プロレスと業務提携をした頃の試合。
藤原が泡を吹いて失神しながらも、関節技で前田からギブアップ勝ちを奪った試合だ。
最近のプロレスが面白くないのは、ノアの試合と高山善広がらみ以外で、体を張った試合にお目にかかれる率が減ったからだと思う。
プロレスラーにとって、体を張るということは、肉体言語を発するということだ。
活字プロレスとは、普通の言語に翻訳された肉体言語のことだと思う。
WWEのプロレスは、活字プロレスの入り込む余地がない。
完成されたエンターテイメントであるがゆえに、しっかりとしたストーリー(活字)がすでに用意されているためだろう。
だから、いつか必ず飽きる。
前田と藤原の試合は、のちの新生UWFで行われたものより、迫力において数段勝っていた。
もしも<抗争>とか<乱入>などというギミックを用いれば、二人に半殺しの目にあわされそうな感じだった。
この戦いに勝った藤原は、猪木とシングルマッチを行う。
試合中、藤原の関節技の角度が間違っているとアピールし、さらには疑惑の急所蹴りまで繰り出して勝利した猪木の喉元に、前田はマジ蹴りを叩き込んだ。
怖い。
シャレにならん。
だが、おのれの立場がどうなるかも考えずに突っ走ってしまう前田のこうしたところは、今でもすごく魅力的だと思う。
新生UWFからリングスにかけて、前田日明は団体の長として行動しなければならなかった。
当然、試合に勝つことだけを考えれば済むわけではない。
団体の存続のため、客が足を運びやすいカードを考え、単調な試合展開にならないようつとめないといけない。
いちレスラーとしての自分と、社長としての自分が、矛盾を抱えたまま一つの肉体に宿る。
これは切ない話だと思う。
しかしその苦しみは、かつて激しく反発した猪木が抱いていたものと同じだ。
猪木を攻撃すればするほど、その言葉は自分にそのまま跳ね返ってくるのだ。
それでも、だからこそ、反発せずにはいられないのだろうか。
前田が引退した年に同じく引退したジャンボ鶴田の試合もビデオで見た。
天龍が全日を去りSWSに移籍し、三沢がタイガーマスクの仮面を脱ぎ捨てた頃だ。
三沢が三冠王者の挑戦者として鶴田に挑んだ試合。
鶴田は、化け物みたいだった。
196センチの巨体と、レスリングでミュンヘンオリンピック出場というグラウンドテクニックを持ち、動きは今の高山より数段素早い。
うつ伏せの三沢にSTFをかけるスピードが蝶野と同じくらいある。
バックドロップの角度は鋭角的で、パワーボムはかつて天龍を一発K.Oしたほどの高さを誇り、おまけにスタミナときたら40分を過ぎても大技を連発できるほどだ。
天龍や三沢は、あんなものすごい怪物を倒さなければ前へ進めなかったわけだ。
前田の引退試合は、ロシアのアマレス王者、アレクサンダー・カレリンだった。
技術を越えたナチュラルパワーの前に前田は破れた。
あまりにも強い相手には、中途半端な打撃や関節技は通用しないという事実を我々は知った。
鶴田の引退もほぼ同じ頃だった。
記者会見で鶴田は、
「全盛期の前田日明と戦いたかったという気持ちはあります」
と答えた。
接点のまったくない両者だったし、ファイトスタイルの違いから、当時は違和感を覚えた発言だったが、ビデオで鶴田のナチュラルパワー全開のファイトを見て思った。
スタイルがかみ合わないということはなかったのではないか?
お互いスープレックスが得意だということもあるし。
鶴田対藤波戦より、見てみたい気がする。
もっともジャンボ鶴田は鬼籍に入り、かなわぬ願いではあるのだが。
プロレスのビデオを見てばかりというわけでもない。
昨日、遅まきながら金原ひとみの「蛇にピアス」を読み終わった。
「文藝春秋」の芥川賞掲載号だ。
だから綿矢りさの「蹴りたい背中」も収録されている。
そっちはまだ読んでいない。
「蛇にピアス」は、流行に遅れた人の立場だったため、偏見を持たずに全部読むことができた。
ピアッシングのあれこれは知らない世界だし、それについて心理分析することがこの作品の読解にいささかの助けにもならないことは予感していた。
表層に惑わされることなく、作品世界を神の視点で(あるいは覗き屋の視点で)俯瞰(あるいはのぞき見)すると、理解できる部分と理解できない部分がはっきりとわかり、それは別に珍しいことじゃないように思えた。
十歳以上年下でしかも二十歳そこそこの女が考えてることには、わかる部分とわからない部分とわかったつもりでわかってない部分の比率があり、その比率は結局変わらないだろうということを感じたのだ。
アマが死んだ時に主人公が感じた怒りはすごくよくわかったし。(わかったつもりかもしれん)
シバさんとのセックスが気持ち良いっぽいのはよくわからなかったし。(そういうものなのか?)
「文藝春秋」はモチメに借りたのだが、彼女の知り合いに美容師見習いで色んなところにピアスをいれてるバカな16歳の女の子がいて、これを読み終わって言った感想は、
「あたしの(ピアスあける時の)痛さはまだまだなんだなっておもったー」
だったそうな。
たぶん、彼女の読み方と感想が、一番正しい。
こういう風に読まれてこそ、この作品は同時代性において光り輝くだろう。
いっそのこと、本の帯に、
「ジジイは読むな」
とでも書いた方がいいのではないか。
そういう風に挑発されてもなおジジイが読むことで、やっとジジイは語る言葉を得られると思うのだが。