ビートルズらしい音

 今日だって蒸し暑くないわけじゃないのだけど、昨日に比べたら避暑地に来たような涼しさだ。
 7月8月の最高気温が、36度を超えないことの方が心配だ。

 ターザン山本氏がネットのターザンカフェで、PRIDEのことを書いていた。
 「それは格闘技だから…」という言葉を観客が自然と語れるようになればいいという。
 そうなれば、桜庭の敗北もその一言で片づけられる。

 一読した時は納得できなかったが、夜になって確かにその通りだなと思った。
 最近プロレスばかり見ていて、勝負論と観客論の狭間で迷子になったようなところがあった。
 さすがにターザンは、そのあたりをはき違えたりはしない。
 PRIDEを褒め、前田日明を褒め、NOAHを褒める。
 立脚すべき論理をきちんと使い分けているのはさすがだ。

 ターザンカフェのコラムは頻繁に更新されているのだけど、この人は他にも色々な原稿を抱えており、週単位の活字産出量はすさまじい。
 自ら育てた週刊プロレスを石もて追われ、妻には逃げられ、一般人の感覚では人生の辛酸をなめつくしたとしか思えない90年代後半を送ったターザン氏だが、やはりその仕事っぷりや書きっぷりには感嘆するしかない。
 こういうライターが演劇界に一人いたら、どれだけ面白いことになるだろう。

 夕方、また夕食を作るのがめんどくさくなったが、ここがこらえどころと思い、冷やし中華を作って食べた。
 具材きゅうり、ハム、卵を用意するだけだが、こういうところを面倒がらずにきちんとやることが以外と大事なのだ。
 筒井康隆の『敵』という小説は、老人のやもめ暮らしを克明に描写した作品だ。
 主人公の儀助は自炊をしているのだが、麺類を食べる時にはきちんと具材をそろえている。
 その几帳面さが、老人の食生活を驚くほど豊かなものにしているのだ。

 4年前に『ギョーザ大作戦』を書いた時、芝居のコピーは「食えれば、それは、うまい」だった。
 学生時代の旺盛な食欲が減衰しつつあることへの反抗のつもりもあった。
 だが、その考えは一歩間違えると、食えればなんでもかまわないということになってしまう。
 ご飯炊くのがめんどくさい。
 カップ麺でいいや。
 お湯沸かすのめんどくさい。
 暑いからアイスでいいや。
 買いに行くのめんどくさい。
 食えればなんでもいいや。

 こうなってくるとどんどんエスカレートして、

 ごみ捨てるのめんどくさい。
 カーテン開けるのめんどくさい。
 起きるのめんどくさい。
 仕事がめんどくさい。
 そしてついには、生きることがめんどくさくなってしまう。

 たかが食事、されど食事だ。
 冷やし中華の具材といえども、それをめんどくさがらずに用意できるかどうかが、メンタルチェックになるのだ。

 とはいえ、今日は作った量が多かった。
 食べ終わると血液が胃袋に集中するのを感じた。

 『ビートルズアンソロジー』ようやく1968年の部分を読了。
 1969年に『アビーロード』をリリースしてからのビートルズは、実質解散状態だったので、残すところあと半年だ。

 ここまで読んできて思ったことがある。
 にもっとも無とん着だったのは、ほかならぬビートルズではないか。

 ホワイトアルバムに収録された『へルター・スケルター』は、ポールがピート・タウンゼンドのインタビュー記事に触発されて作った曲だ。
 インタビューでピートは、
 「今度の曲は最高にラウドでノイジーだ」
 みたいなことを言ったらしい。
 ポールはそれを読み、
 (それがどんなもんかわからないけど、じゃあ僕らでもやってやろうじゃないか)
 と思った。

 ピートが言っていた曲は “I Can See For Miles” のことだ。
 カッコイイ曲なのだけど、ピートが思ったよりヒットしなかった。
 『へルタースケルター』は “I Can See For Miles” よりラウドでノイジーな曲だろう。
 しかし、ハードロック史に残る曲ではない。
 なぜなら、この曲はハードロックのパロディーに過ぎないからだ。
 そして、パロディなのにハードロック以上にハードな音を出した。
 こんなことができたのは、ビートルズがという様式に対して無とん着でいられたからだ。
 「イエスタデイ」もビートルズなら「へルタースケルター」もビートルズ。
 彼らがやりたいと思った音楽はなんでも、ビートルズ曲になる可能性があったのだ。

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