坂東眞砂子が日経新聞に掲載した記事が、大変な物議を醸している。
飼っている猫に子どもが産まれたら、崖の下に放り捨てているという文章。
日経新聞には抗議が殺到し、ネットでもその件に関する議論がかまびすしい。
大ざっぱに整理するとこうなる。
人が猫を愛玩動物として飼う行為は、わがままに根ざした行為である。
その行為をするからには、社会的責任が生ずる。
すなわち、成猫に去勢・避妊手術を施すか。
あるいは、産まれてきた子猫を殺すか。
坂東眞砂子氏は後者を選んだ。
殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことであるとのことだ。
一つだけ疑問に思うのは、このエッセイを発表した作者の意図である。
文章そのものは「なるほどな」と思って読んだ。
人が嫌悪するのは論旨ではなく、この文章があらわしている現実なのだと思う。
なぜ、わざわざそれをさらけ出そうとしたのか。
相当な覚悟があったとして、ではそれをなぜ今書く? ということだ。
猫を飼うという行為は、自然の生から離れた行為だ。
そこには食物連鎖も生存競争もない。
猫は言葉でコミュニケーションを取れないから、自分の置かれた状況を説明することができない。
だから、生物的に生存する快不快は別として、猫が己の生をどのように観念的にとらえているか、人間には決してわからない。
人間は、自分に飼われている猫は幸せであるという前提に基づいて、その状況を維持しようとするのだが、その前提は永久に仮定のままである。
猫は避妊・去勢すべきだという考え。
これは、都会で猫を飼う場合に当てはまるルールだと思う。
猫エイズ防止という側面もある。
そしてそこには、生き物の性と生を人間がコントロールする傲慢がある。
それでも手術はする。絶対する。
「オレはお前らの睾丸と子宮を手術で切り取ってもらう。
生殖機能がなくなるから、盛りがつくこともない。
お前らにオスとして感情移入すると決心が鈍るので、
手術が終わるまでオレの精神は肉屋の親父だ。
手術が終わってもオレはお前らを撫でることをやめないし、
餌をあげたり体調に気をつけてあげたり、
まるでオレ自身の子どもであるかのように、
世話をすることをやめないだろう。
お前らは結果的に野良猫よりも安全な環境で、
長い生を生きることになるだろう。
だがそれは、オレがそうしたいからそうするだけだ。
お前らの何の気なしの佇まいを、オレが勝手に可愛いと思ってるだけだ。
以上の長台詞をふまえて最後に言わせてもらう。
猫、大好き。超、かわいい」
都会で猫を飼う者は、この精神でいいと、俺は思う。
坂東眞砂子が住むタヒチは、日本に比べて子猫の生存率が低いと思う。
その低さは自然の生存競争に根ざしている。
だから、産まれてもその辺に放っておけば自然が子猫を間引いていくから、良心は痛まない。
自分が、殺したような気が、しないからだ。
坂東眞砂子はもしかすると、子猫を、きちんと殺さねばならないと、考えたのかもしれない。
自然に放っておき、死ぬに任せるのではなく、自分の手を汚して、殺す。
そして、その痛みを受け入れる。
わかる。
だがそれは、人が人生を生きていく上で、内面的に考えをとぎすませていく問題であって、新聞に寄稿するような葛藤ではない。
都会の猫好きが感じる痛みを、ないがしろにしてまで、することではない。
表現の自由は確かにある。
が、
(私のこの葛藤を、誰か受け入れて欲しい)
というメッセージが含まれているのだとしたら、オレはこの文を受け入れたくないなと思う。
その点だけに、疑問を感じた。
小説の形で表現すれば良かったのにとも思ったが、それもまた彼女にとっては、痛みを受け入れないことだったのかもしれん。
いずれにせよこの議論はどこかでやめないと、ヒステリックな誹謗中傷合戦になっていくおそれが多分にある。
坂東氏は沈黙を守るべきだと思うが、どうなるだろう。