カート・ヴォネガットが亡くなった。
夜、ニュースで知った。
『夢の木坂分岐点』を読んでから、筒井康隆ファンになった。
買いあさった作品の中に、『着想の技術』という本があった。
作家の創作術について論じたエッセイ集である。
この本に、カート・ヴォネガット『屠殺場五号』のことが書かれていた。
『屠殺場五号』は現在『スローターハウス5』というタイトルになっている。
連合軍によるドイツのドレスデン空襲をモチーフにした、ヴォネガットの代表作である。
ページを読むことで流れる時間と、小説上に流れる時間が、これほどずれている作品は他にないだろう。
主人公のビリー・ピルグリムは時間の中に解き放たれ、ある種の時間旅行能力を身につけた。
それは、彼がトラルファマドール星人によって拉致されたことにより身についた能力であり考え方だった。
トラルファマドール星人は、四次元から時間を横に眺めることができる。
そのため彼らは、一人の人間が誕生してから死ぬまでを、真横に引かれた光の線のように一望することができる。
だからビリー・ピルグリムは、常に生まれ、生き、そしてこれからも常に死に続けるのだ。
そういうものだ。
1998年に出版された『タイムクエイク』は、ヴォネガット自身の口から<遺作>であると宣言された。
「書かずにいることができる人じゃない」という夫人の言葉が、ファンにとっては新作への一縷の望みだった。
だがもはや永久に新作を読むことはできない。
悲しい。
悲しいが、ヴォネガットの全作品を読み、その思想を理解しようとすればするほど、この悲しみは場違いなもののような気もする。
『タイタンの妖女』にもこんな言葉があった。
パンクチュアルな意味でさようなら。
人生を左右するような本。
そのうちの一冊は、ヴォネガットの『スローターハウス5』だ。
だけど、小説として好きなのは、『スラップスティック』や『青ひげ』だ。
正直なことを書こう。
ヴォネガット作品で、嫌いなものにお目にかかったことがない。
いや、今の自分は冷静さを失っているかもしれない。
だがこのことだけは言える。
どのヴォネガット作品を読んでも必ず、泣きたいような気分になる箇所がある。
そしてその箇所は、泣かせるようには決して書かれていない。
どこかしら客観的で、どこかしら間抜けで、どこかしら冷たく、どこかしら優しい。
『スローターハウス5』には、作者直筆と思われる墓の絵が挿入されている。
墓碑銘にこうある。
EVERYTHING WAS BEAUTIFUL,AND NOTHING HURT
(何もかもが美しく、傷つけるものはなかった)
トラルファマドール的な意味において、ヴォネガットはこれからも生き続ける。
そう思いたい。