家事に思想はいらない

11時過ぎからジョギング。
善福寺川沿いの道を走る。
途中でコイキングの飴が400個に到達したので、その場で進化させ、ギャラドスにした。
環八から高井戸、西永福と戻る。
結構走ったつもりだったが、10キロちょっとだった。

昼飯に、餃子をたくさん焼いて食べた。

夕方図書館へ。
予約した本を借りる。
TSUTAYAへ行き、DVDを借りる。

夜、本を読む。
買ったり借りたりで積ん読状態になっている。

開高健『夏の闇』読了。
昔の愛人と外国で再会し、部屋にこもって性と食にふける。
彼女が暮らす部屋へ移ってからも同じ日々が続くが、彼は彼女以外の誰とも会おうとはしない。

駄目になっていく男女の話のようだが、沈んでいるのは男の方で、女は駄目になっていない。
ただ、男がサイゴンからのニュースで息を吹き返したとたん、今度は女がずぶずぶと沈んでいく。

どちらかが上がると、どちらかが沈むような男女関係など、好んで持ちたい人はいないと思うが、現実にはたくさんあると思う。

そっちへ引き寄せる力は、確かにある。
途方もない聡明さか、あるいは単純さがないと、見えないその力に絡め取られてしまう。

聡明さの背後には単純さがある。
思考と関係なく動かせ、それによって確実に変化させられる諸々。

例えば家事がそうだ。
生活をルーティン化し、何時に何をするのか決めておく。
そこに余計な思想はいらない。

『夏の闇』の女は、部屋をきれいにしていた。
男はそれを批判的に眺めているのだが、家事に思想を求めることがそもそも誤りだろう。

ふと、村上春樹の作品のことを思った。
村上作品に出てくる男たちは、家事をきちんとやる人物が実に多い。
男たちは、掃除をしたり、シャツにアイロンをかけたり、買い物をしたり、食事を作ったり、皿を洗ったりする。

男がサイゴンに行ってしまってから、女は部屋をピカピカにし続けただろうか?
そのことがとても気になった。