死刑執行

麻原とオウム真理教幹部たちの死刑が執行された。
宅間のことを思い出す。改悛の情を一切現すことなく彼は死刑執行を望み続けた。

死刑によって何が裁かれるのだろう。わからない。もし死刑執行ボタンを押す係に選ばれ、かつその役を断ることができたら、断る。

愛する人を殺した犯人だとしたらどうだろうか。
その場合、自分の心がどうなっているか想像することができない。魂が煉獄に落ち、修羅となって復讐を果たそうとしているかもしれない。

そうなると、犯人が法に裁かれることを望まないかもしれない。ただ、行きつく先に救いはない。地獄だ。

そして法律は、被害者の心が地獄に落ちるのを防ぐ目的で作られていない。これこれこうだから死刑というふうにシステム化されている。たかがシステム。使わなければ何の力もない。

もし国民全員に死刑執行ボタン係を振って、押せない人の数が大部分を占めたなら、そのシステムを使用するには問題があるということだ。使うと決めたシステムなのだから押さねばならないという考え方は変だ。

麻原たちは、まるでいつの間にかくびり殺されたかのようだ。

もちろん、オウムの犯罪を許してはいない。だが、そのことと、いつの間にか死刑が執行されていたことには、大きな違いがある。
決まったことなんだし、まあ色々なんだから、と執行が指示され、ですよね、そろそろまあ、あれですし、とボタンが押されたような気がする。

もしボタンを押すことを拒否したら、その人は処分されるのだろうか? 拒否したら首になって無職になるのか?

となると、家族を養うためには、首つり窒息死促進装置のボタンを押さないといけないわけか。
そこで抗え得ないという気持ち悪さは、ホロコーストや特攻隊につながっている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました