昨日は映画の余韻があり、眠かったのに3時まで起きていた。
今朝は8時起き。フルーツグラノーラとミルクの朝食を食べ、水耕栽培の水足しをする。
きゅうりが二本大きくなっていたが、昨日収穫したばかりなので、鮮度を考えて明日取り込むことにした。
日差しが強かった。しかしトマトはまだ青いままだった。実をつけ始めてから、日々の気温を加算していき、累計1000度に達した頃に赤くなるらしい。4月末から5月にかけての気温は、6月から7月に比べると低いので、2ヶ月以上経ってもまだ達していないのだろう。それでも、かすかに第一花房の実の尻に色の変化が見られる。サイズは十分に大きいので、赤くなるのを待つだけだ。
図書館へ行き、予約した本を借り、クリーニング屋でコートを引き取る。暑い日差しの中でコートを受け取ると、暑さが増すような気がした。
11時半に家を出る。中野坂上まで自転車で行き、大江戸線で春日へ。後楽園の立ちそばでミニカツ丼とそばのセットを食べ、1時にシビックホールへ。本読み会に参加。
今回はピランデルロの「作者を探す六人の登場人物」だった。新しい翻訳版を見つけられず、コピーをお願いした。古い版を読んだことがあるが、内容をあまり覚えていなかった。
声に出して読むと、薄い記憶が吹き飛ぶほど印象が違っていた。メタシアターだが、虚構の世界から登場人物がやってきたという感じはあまりしなかった。
5時に散会。大江戸線で新御徒町へ。外に出ると太鼓の音が聞こえた。導かれるまま道を折れると、祭のイベントなのか、お団子頭の女子中学生たちが和太鼓を叩いていた。
今日は鳥越祭らしい。鳥越神社の千貫神輿はケンカ神輿で有名だと、その場でスマホ検索をして知った。和太鼓パフォーマンスは、近隣の町内会で平行して行われる祭りのものらしい。
ではご本尊はどうなっているかと、鳥越神社まで歩いてみた。
神社に近づくにつれ、人の数が増えてきた。神社は蔵前橋通りの近くにあった。周囲には屋台が並び、半被を着た人々が歩いていた。通りに面した部屋の窓を開け放ち、集まって宴をする人々もいた。ガレージにテーブルを出して飲む人々もいた。いい雰囲気だった。
しばらく祭の雰囲気を味わってから、竹町公園に移動してベンチで休んだ。
7時近くになってから、ピザ屋「想兵衛」へ。昨年8月以来だった。浅香が先に来ていた。
黒田さん、『未必のマクベス』を買ったらしい。感想を聞いてみたが、まだそれほど進んでいないとのことだった。
しばらくして篠塚さん夫妻来る。お久しぶりですと挨拶し、ピザを頼んだ。
篠塚さんは昨年副校長になった。「仕事は電話番みたいなもの」らしい。韜晦もあるのだろう。バスケ部の顧問をしていた頃は、土日は間違いなく部活で、家にいたことはほぼなかったと、めぐみさんは言った。
「居場所見つけるのに苦労しますね」
「掃除機かけたりとかね」と篠塚さん。
ある劇場で、市村正親に握手をしてもらった話を、20年くらい前篠塚さんに聞いた。大変面白い話だったのだが、今日聞き返してみると細部が色々違っていた。
パルコ劇場で日下武史の芝居を観て、アンケートを書いていたら、エレベーターに乗るのが遅くなってしまった。劇場を出る最後の客と一緒にエレベーターに乗ると、市村さんが乗ってきた。乗っている女性たちが喜んでいたので、出ている役者さんなのだと思った。市村さんは女性客と談笑し、降りる前に握手をした。そして「キミもする?」と篠塚さんに手を差し伸べてきたという。
いい話だと思う。
閉店時間過ぎまで話し込んだ。
会計で、篠塚さんがオレと浅香の分を出してくれた。
「いやいやいや、いけません、我々社会人にも出させてください」
「いや、いーからいーから」
「せめて2枚、じゃあ、1枚だけでも」
「いやいや、今日はホントに」
「何がほんとになんですか」
「いやいやいや、この前芝居も見させてもらったし」
「見に来てくれたんじゃないですか」
というやりとりをしつつ、結局先輩にゴチなるという展開になってしまった。ごちそうさまでした。
新御徒町で三人と別れ、中野坂上から自転車で帰宅。途中で雨が少し降ってきたが、本降りになる前に家に着いた。
「万引き家族」のことをtwitterで検索する。批判的意見のうち、実際に見ていない人の意見は読んですぐわかる。なぜかそういう意見ほどヒステリックだ。
見て批判している人の意見は、好みではないということを言い回しを変えているものがほとんどだった。
twitterで語れる映画は、「泣ける」「笑える」「怖い」など、簡単にカテゴライズができ、引き起こされた感情のステータス化が容易な作品だろう。
「万引き家族」はそういうのを拒否する作品だ。
唯一、ステータスをつけるとすれば、「考えさせられる」で、これは「その他」に等しい。
でも、そういう映画が多くの客を動員することは、重要なことではないか。「とにかく良かった」という、何がどう良かったのかわからない意見を頼りに見に行く人がいて、同じように「とにかく良かった」と思ったり、あるいは「もやっとしていまいちだった」と思ったりする。しかし、共通しているのは、肯定にせよ否定にせよ、ひと言では語れないということだろう。
ひと言で語れないことは、悪いことではない。語れぬすき間に生まれるものを、思慮、というのだと思う。