はい上がる

朝11時に劇場入り。
舞台上に役者を集め、昨日の総括をする。

どこがどう駄目だったという話はせず。
ただ、なぜ駄目になったのか、演出の立場で考えた結論を話す。

芝居が始まると舞台は役者のものになる。
自分にできるのは、モニターを見て、念を送ることくらいだ。

だがそれは、出番のないときの役者も同じではないか。

1対0で負けている9回裏の攻撃。
ツーアウト2塁3塁の場面となったら、たとえ打席に立っていなくてもベンチにいる者は身を乗り出して味方を応援するだろう。
ピンチの時、あるいはチャンスの時だ。

今回の芝居でいえば、いつだってピンチであるということを、昨日は忘れかけていたように思える。
だから応援がなかった。
もちろん実際に声を出したりするわけではなく、そういう気持ちで相手や他の役者の芝居を見る心地があるかどうかということだ。

最初のシーンからラストシーンまで、目に見えない塊を次の場面へとリレーしていくイメージを伝える。
それは熱を加えられ、少しずつ大きくなっていくべきものだ。
だがリレーがうまくいかないと、冷えて小さく固まっていく。
ついには元に戻らなくなる。

その話でしめる。

マチネは昨日より慎重な出だしだった。
初日のように突っ走る感じはなかったが、リレーをしようという意識が見えてきたと思う。

昨日と今日、安見くんと知恵ちゃんが安定感を見せている。
二人とも稽古中は随分迷っていたが、なにかの拍子に突き抜けたようだ。

ソワレは、マチネよりもまた少し良くなった。
劇的に良くなるというより、少しずつ上向いている感じがある。

劇的に良くなるという<良くなり方>は、あまり良くないんじゃないかと思う。
蝦蟇の油売りのようだ。
「こうすれば見事に良くなる!」
みたいな。

会社の同僚、田中さん佐藤さん渡辺さん見に来る。
仕事先の人に見てもらうのは、独特の緊張感がある。
稽古場の自分と仕事の自分と舞台の自分のうち、どれが本当の自分なのかは、今さら考えたりしないのだが、仕事先の人に見てもらうと、
(あれ、今の俺はどの俺だっけ?)
と、自我に疑いを持ってしまう。

荻野中山片桐らと飲む。
こぢんまり演じる優都子ちゃんが、普段はニコニコしてかわいらしいのだよと言うと、
「ぜひ呼んでください今すぐここへさあ早く」
と鬼のような催促だったので、別テーブルで飲んでいた優都子ちゃんに声をかけてきてもらう。

「(ニコニコ)はじめまして。高橋優都子と申します」

笑顔でかわいらしく挨拶する彼女を目の当たりにした荻野中山コンビは、現実とフィクションの区別がつかなくなった無職歴15年男がワンカップ大関片手に新宿中央公園でたき火をしていたらUFOを目撃したみたいな、思考停止というには生ぬるいほどの表情で彼女の挨拶を聞き、立ち直るや否や猛烈な勢いで羞恥心に襲われ、モールス信号のようにどもりながら自己紹介をしていた。

帰りがけ土壇場になって、子供を持つ親として今回の話をどう思ったかという形で意見を聞く。
それに対する返事を電車の中でメールする。

考えられる最悪の状況に、もし陥ってしまったらどうなるのか。
そこから人間はどう立ち直っていくのか。

たぶん、

「いつまでも信じてる」
「大丈夫。きっとうまくいく」
「悪いのは君じゃない」
「ずっとそばにいてあげる」

という言葉群が指し示す方向に答えはないだろう。そんな生やさしいもんじゃない。
血反吐を吐く苦しみ、地面をかきむしって爪を折るような傷み、自分を支えてくれる人に当たり散らす自棄、世界中の人間への憎しみ。
自分で自分を損ない続ける苦しみの無限ループだ。
そこから、やっとのことではい上がるきっかけをつかんだ人間を言い表す言葉は<必死>しかないだろう。

その必死を、表現したかった。
メロドラマにしたかったわけではない。
もっとその辺の話ができればよかったけど、別れ際に意見が聞けてよかったと思う。
メールを書きながら、自分が考えてきたことの整理もできたし。

1時帰宅。