エチュード離れ

 夕方、稽古に遅刻する。
 西荻北でやる予定だったのだが、まっすぐ杉並の大宮へ向かってしまった。
 稽古場に着いて誰もいないことに気づき、慌てて久保田君に電話する。
 「先に入っておいて」

 15分と少し遅れて到着。
 西日をたっぷり浴びて、シャツが汗まみれ。
 有酸素運動をたっぷりやった手応えがあるが、しょせんは初夏のまやかしだ。
 だめ押しの運動と筋トレをする。
 最近、やけくそのように筋トレをしている。
 芝居のラストがうまく書けないことが理由の一つになっているかもしれない。

 筋書きを思いついただけで、芝居が完成したと思うわけではない。
 むしろ、先に筋書きを思いついた時ほど、完成への道のりは困難を極める。
 筋書きには台詞もト書きもなく、純然たる美しいイメージのみがある。
 それを、己の限られた脳みそに詰まった貧弱な言葉で表現しようとすると、素人が飛車角落ちで将棋を指すような、やるせない敗北感を感じる。
 どうしてもっと吸収してこなかったのだろうと、思春期からの怠惰十数年間を恨めしく思う。

 エチュード稽古をすると、稽古場がごく自然にブレーンストーミング体勢に入り、言葉を生み出す脳みそが倍増する。
 だが、これを続けていては、いずれ新しいものを書こうとする自分の想像力に枷をはめることになるのではないか。
 3本立て公演稽古末期に、漠然とそんなことを思った。
 そういえばそれ以来、2004年の公演からはエチュード稽古を減らしている。
 役者の味を強く押し出したい時のみ、イレギュラーとして使っている。

 今日は今回の芝居で初めてのエチュードをした。
 玉山さんと久保田君。
 目的はたった一つ。
 久保田君の役を、絶望からほんの少し上向きになった状態で去らせること。

 設定が役者をがんじがらめにしているから、純然たる意味でのエチュードではない。
 が、役者の作り上げてきたキャラクターと、俺の作り上げてきたそれが、ここらでぶつかるのも一興と思った。
 効果はすぐ出た。
 俺に対してだけだが。

 これまで、ああしようかこうしようかと悩んでいた事柄が一挙に解決した。
 もちろん、演じている役者にはなんのことやらさっぱりわからないだろう。
 だが、ラストを書いている俺にとっては、今日やった10分足らずのエチュードがもたらした効果は絶大だった。

 いや、絶大すぎる。
 これは危険だ。

 たとえばこれから劇団が若い役者を入れて、稽古を重ねていくとする。
 技術的精神的に研鑽を積ませるために、エチュード稽古はやはり必要だろう。

 が、その劇薬的効果を誤る危険を知らずに、アヘンのように服用し続けることは、これから台本をどんどん書いていこうとする人間にとっては危険な行為だ。

 これからもエチュードは続けるだろう。
 だが、それにおぼれることのない自制心を持ち続けないといかん。