客演するということ

13時半起き。
トーストと目玉焼きとスープで遅い昼食。

午後、客演する時に自分が作るものについて考える。
まず、人物だ。
そして、相手役とのやりとりによって醸される空気だ。
その空気を、芝居全体においてどのように配置し生かすかを考えるのは演出の役割と考え、その部分には触れない。
台詞を言った時に感じることや考えることは、稽古で繰り返すごとに溜まっていく。
自分の役がどういう状態にあるのかを知ってもらうため、あるいは知ってもらいたいという欲求を満たすため、時々はき出す。

役者の仕事は、台本に書かれた活字上の定にすぎない人物を、目に見え声を聞くことの出来る存在にして見る者に提示することだと思う。
<そいつが本当にそこにいる>
という感じをどれだけ強く作れるかどうかだと思う。

今回の客演では、稽古時間がほとんど取れていないので、繰り返し稽古によって空気を醸成するということが出来ていない。
一番の問題は、稽古時間の使い方だと思う。
3時間あるとして、実際に演じて動いている時間の占める割合が低い。
場面を一回やった後、出のタイミングの確認に多くの時間を取られ、話し合いの時間になってしまうためだ。
たとえば5分のシーンがあるとして、5分実際にやった後、話し合いが20分かかり、もう一度5分やってみるといった具合。
不真面目でそうなっているということであれば、事態は単純なのだが、全員真面目に取り組んでいる結果そうなっているというところが、事態をややこしくしている。
結果的に、役者個人個人の稽古不足が深刻な状態に陥っている。

これを解消するために自分ができることは何だろう。
<俺がなんとかする>
というヒロイックな発想ではなく、共にある者として、作品を作るという意味において、どういう行動をすればものづくりをしていく雰囲気が盛り上がるだろうか。

黙って見ているだけは、駄目だろう。
思ったことや考えたことは、相手に言ってやる。
<意見>という言葉の絶対量を増やす。
雰囲気を作ることよりも、芝居そのものを作る方向で行動する。
自分のシーンだけじゃなく、芝居全体に対して主体的になる。

当たり前のことだ。

そうやって一つ一つ積み上げて行けば、台本の活字に現れていない沢山のおもちゃを、場面場面から見つけていくことが出来るんじゃないかと思う。

夕方、図書館で本を借りた。
『愛妻から見た素顔の三沢光晴』
『若気の至り』

後者は郷ひろみの本。
なぜ予約したのか覚えていないが、とにかく借りた。
ぱらぱらめくってみると、全編ヒロミ・ゴーの軽口で埋め尽くされており、面白いといえば面白かったが、真面目に読もうという気が若干削がれた。

『愛妻から見た素顔の三沢光晴』は一気に読んだ。
そこに書かれているのは、亭主関白だけどどこか憎めない、普通のおじさんである三沢光晴だった。
どこか憎めない人というところは、ノアを引っ張っていく上で、非常に大きかったのではないだろうか。
奥さんは、夫が死んでからも、携帯は解約できなかったという。
葬儀が終わってしばらくして、一回だけ夫の携帯にメールをした。
「父ちゃーん」
目の前の夫の携帯に、メッセージが届いたそうだ。

夜、後頭部が激しく痛んだ。
考えすぎたためかもしれない。
アスピリンを会社に置きっぱなしにしていたので、薬で何とかすることができなかった。
布団を敷いて横になれば治るかと思ったが、痛くて眠れなかった。

何時間も横になったのに頭痛が治まらなかったので、試しにお灸を据えてみた。
あっさり治った。
プラシーボ効果かもしれないが、治ったのだから文句はない。