武道館行きたかった

7時起き。朝飯に、ご飯、きくらげとチンゲンサイの炒め物、昨日の牡蠣鍋残りを味噌汁にしたもの。

二度寝はせず、『書くことについて』を読み、母と雑談し、昼まで過ごす。

母は、甥3号の誕生祝いのため、妹の家に出かけていった。

昼、いなり寿司、味噌汁の残りを食べた。

1時半、走りに行く。まあまあ暖かかった。

浦安橋を渡り、旧江戸川沿いを舞浜大橋。葛西側に渡り、臨海公園の海沿いから中川沿いをさかのぼり、清新町から実家へ。およそ13キロ半。

走りながら、東野幸司のホンモノラジオを聴いた。年末の特番司会を下ろされ、こうなったら裏でその番組をディスる番組をやりたいとダディ。どこもなかったら Youtube でやると言い、あつむさんから「とうとうそんなタレントに」と嘆かれるところで笑ってしまった。

しかし、「うちでその番組やりましょう!」と声をかける他局があれば、展開としては一番面白いし、下ろされた日本テレビの番組も注目され、Win-Winだと思うのだが。

そういう冒険や遊びをしなくなった頃から、テレビはつまらなくなった。いいとも最終回で、ダウンタウンがいるところにとんねるずが乱入したのは、松ちゃんが「とんねるずがきたらネットが荒れる」と放送中に発言したためで、その瞬間タカさんは「行ってやる!」となり、結果、とんねるずによる「長えよ!」乱入という伝説場面となった。後日タカさんは、「フジテレビはそういう遊びが上手い局だったのに、なぜ止めるのか」と嘆いていた。

松ちゃんが、文春への訴えを取り下げた。訴える相手が文春という時点でおかしかった。被害女性が松ちゃんを訴えないまま、文春が間に入っているところにも、モヤモヤしていた。文春は、頭を引っ込めた亀の状態だっだ。松ちゃんは絶対に勝てない。本来松ちゃんは被告になるべきだったのだ。

取り下げたのは、早く仕事がしたかったためだろう。あるいは、このままではお笑いができなくなるという焦りと孤独感ゆえか。

取り下げるには文春の同意が必要で、その条件が被害者女性への謝罪の言葉だったという流れで、松ちゃんのお詫びの言葉も発表された。しかし、こんな言葉を被害者女性が得たところで、なんになるのだろうか。誰の得になるかといったら、文春以外あり得ない。

強制的に何かをさせた物的証拠はなかったことがはっきりしたという松ちゃんサイドの発表も、印象操作のきらいがある。このまま裁判を続けたところで得るものはなく、かといって文春を訴えなかったら罪を認めたかのような印象を世間に与える。そして被害者女性は決して告訴しない。文春が作り出した構造は、人を陥れるためのものだ。そこに見事にハマってしまったのは、松ちゃんが持っていた「これはアリやろ」という線引きが、昭和時代からアップデートされなかったためだろう。若くして売れたがゆえに、許されるという経験を何十年も続けてきたため、コンパの自分の態度で『不快』な思いをする女性がいるなんて、夢にも思ったことがないのかもしれない。

とはいえ、それと性犯罪は別物だ。そのくくりを曖昧にして、匂わせテクで商売する文春への嫌悪感はぬぐえない。たまたま松本人志でそういう記事が書けたというだけで、人選にたいそうな意義はない。その方が売れるからだ。同じ手法を使って破滅させることができるタレントは他にも沢山いるだろう。

松ちゃんは、固陋さと、変えることを強く拒む頑迷さを、世間にさらけだすことになってしまった。それは、自分に非がある状態を飲み込むことが出来ない人という印象だ。わかりやすく言えば、謝ることが出来ない人という印象だ。

そういう松ちゃんの性質は『遺書』の頃から変わらない。一度こうだと強く思いこんだら、絶対に変えない。変えられない。迫られるとおそらく、極端な方向に走る。だから『ごっつ』は終わった。

でもたぶん、それだと、面白い映画を撮れる人には決してなれない。

ビートたけしは、非は非と認めつつも、譲れない点を明らかにし、マスコミと相対して自分の言葉を発した。その迫力が記者を圧倒し、視聴者にまで届いたことで、支持を得られた。

島田紳助は、早々に非を認め、謹慎や引退を選択した。これはこれで、おのれを知っている人のクレバーな判断だったかもしれない。

今回松ちゃんは、訴えを取り下げて謝罪の言葉を発した。でもその言葉は嘘だ。本当にそう思っているはずがない。

沢山の女性を集め、若手時代と同じ感覚でコンパをし、女性に圧迫感を感じさせても、自分がそう思われていたなんて夢にも思わなかったがゆえに、文春に対して怒り心頭に発し、訴訟に持ち込んだ。しかし、裁判を進めていくうちに、結局のところ今の時代その態度でコンパしたらアウトでしょということが明らかになったという顛末だろう。文春相手の裁判だったためにそうなってしまった。女性との裁判だったら違ったろうが、女性の主張はすべて文春の記事を通してしかわからなくなっているため、これも、モヤモヤしたまま終わってしまった。

記事には強制的に手で手淫や口淫させたとあったが、それがあったかどうかはとても重要だったのではないか。松ちゃんの態度が威圧的で女性蔑視的だったとすると、全然よくないことだが、別問題として取り上げるべきだ。でも強制的手淫とかはもうレイプだから、裁判しないと。それとも、嘘記事書いたってことか。

出廷することで身元が割れたり、それによって松ちゃんのファンから叩かれたりするのを恐れる気持ちがあるとしたら、批判は司法にも向けられるべきだ。有名な人物に性犯罪を受けた被害者がそのようにならないようケアし、報道内容も管理しないといけない。そっち方面の批判はまったくなかった。

松ちゃんは、復帰しない方がいいんじゃないか。笑わせるトークで自分の無実をアピールする能力は、もう失われている。X の発言も、Twitter 時代からことさら面白いものなかった。

そもそも、ロジカルな言葉を発して人を納得させることに向いている人ではないのに、言葉を発して笑わせる芸人だったために、誤解されているところがある。イヤな言い方をすると、笑わせる屁理屈を沢山思いつく人に、理屈を求めてどうするという話だ。たけしさんじゃないのだ。

同じ日に、とんねるす武道館ライブの初日が明けた。興奮したワンフーのポストを X で読み、心底羨ましいと思った。救いは、12月20日にライブの録画が配信されることだ。

今回のライブは、『おかげでした』の終わりでつけたけじめのようなことを、音楽活動に対してはまだやっていないと言われたタカさんが、ファンのためにけじめのコンサートもやるべきと考え、ノリさんに声をかけたらしい。そのあたりの誠実さはタカさんらしい。そういうコンサートなら、今回のが本当に最後かもしれない。またやって欲しいし、紅白に出たりして欲しいが、無理かなあ。

夕方、ベルクスで買い物。唐揚げ、マカロニサラダ、ポテトサラダ、焼きそばの具材を買う。

夕食に、ご飯、きゃらぶき、唐揚げ食べる。

『書くことについて』読了。全体は、小説家になるまでの自叙伝と、書くことについてキングがしていることや実践的アドバイスと、この本が完成する前に起きた交通事故についての、三つに分かれている。実践的アドバイスのうち、もっとも役に立つのは、午前中に書き、書く時は扉を閉めるというアドバイスだろう。扉を閉めるというのは、実際にそうすることと同時に、比喩としての意味も持っている。交通事故のことは、その事故があったがゆえに、どうして書くのだろうという問いに回帰し、滞っていた本書の執筆を仕上げることができたというまとめになっていた。

やはり、ルーティンって大事だな。朝のうちに書く習慣は、確かに良いものだと思う。2014年に『ウーララ』という芝居をやった時、早朝に起きて書いていた。そのため脱稿は早い方だったと思う。

しかし、次に書く時は、あて書きは一切なしにしなくてはいけない。そうしないと、台本が、戯曲として保存が利かなくなる。

11時過ぎ就寝。