朝、9時39分起き。その前に一度起きていたが、早い時間だったので二度寝したら、寝過ごしてしまった。急いで作業PCにログインし、遅れましてすみませんとメッセージを送った。
しかし、抱えている仕事は先週末に終えていた。確認のみ行った。
昼、ミニトマト、ブロッコリー、コーンフレークとミルク食べる。
育てている大根の容器を継ぎ足した。もう一つのペットボトルに土を入れ、育てていたペットボトルの底をカッターで切り取って縦につなげ、高くした。
明日、チームミーティングの予定が入ったので、ここ三週間ほどの進捗表に記入し、本日終了。
夕食に、お茶漬け、沢庵、ミニトマト食べる。
夜、ポモドーロタイマーを作動しながら、「夢想」の練習、読書、書き作業などを順番に行った。平日なので飲みはなし。連休があったため、ルールがなし崩しになっていた。飲まないとやはり、色々はかどる。
無差別刃傷事件がさいきん極端に増えている気がする。社会病理以外の何物でもないと思う。
昨日『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』を見て、疎外感の源について色々思うことがあった。小西が感じていたつまらなさは、疎外感とは少し違うのではないか。似てはいるが、何かが違う。
では、何だろうと考えた。
彼が、多数派に交われないことで、昼休みに人工芝の広場に行けない制約を自らに課していたのは、自分から疎外感を感じにいく自虐だったと思う。一緒に屋上でお昼を食べていた山根は、ことさら疎外感を感じているふうではなかった。
小西がさす日傘は、多数派の中でも決して流されない自分でいるための武器であったが、戦う相手は多数派の学生達そのものではなく、疎外感であったと思う。敵は疎外感だったのだ。それは自分の中からわき起こるものなのだから、敵は自分自身であるということだ。疎外感を感じていたのではなく、見定めていたと言った方がしっくりくる。
彼は、敵の存在を際立たせるために自虐を行い、日傘を武器にして戦った。彼の日傘は、桜田さんのお団子頭や、ざるそばランチに相当するものであった。それが武器であるいう意味が同じであったから、二人は近づけた。
しかし、多数派も実は、好きで多数派にいるわけではないのではないか? 彼ら一人ひとりは、小西や桜田さんよりさらに弱い存在で、楽な方法として多数派に属し、人生が最高に楽しいフリをしているんじゃないか?
だが、人は疎外感に対し、武器を持って戦うことができる。そのことに気づき、一人でいることを選択できる人は、やはり、強さを持っている人だろう。
しかし、自分の強さにあと一歩で気づかず、武器を手にする選択をし損なった人々は、敵が自分の中にあるものではなく、多数派そのものであると思いこみ、持つべき武器を間違えて、無差別刃傷事件を起こしているのではないだろうか。
「君は一人じゃない」という言葉が、なんの慰めにもならないということを認めてしまうと、今のところ、令和のニッポン社会は成り立たないようになっている。それが成り立つスキーマはまだ形成されていない。疎外感に悩んでいる人に対するその言葉は、「君も多数派においでよ」と同義である。
「君は一人かい。わかった。なら武器を選ぼう」という、第三舞台のセリフみたいな言葉こそ必要であり、『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』という映画は、そのことを示唆している作品だったと思う。
オレも、日々、基本的に一人だが、水耕栽培のトマトや、年末に編むセーターは、もしかしたら武器なのかもしれないと思う。そして、一人であることが辛いと思う過去もあった。その頃は、年中バーベキューをしているみたいな多数派が妬ましかった。羨ましいではない。妬ましいのだ。だから、自分も加わりたいとは思わず、肉が筋だらけであることを願ったり雨乞いをしたりしたのだ。他人の不幸を願うという意味では、刃傷事件の犯人達と同じだ。
一人なんか全然孤独じゃないし、孤独なんか全然辛くない。はっきりいって、孤独なんか、孤独じゃないのだ。
孤独が辛く苦しいものであることで成り立つビジネスモデルこそ疑うべきだ。