酒がなくても別にいいと思えるようになって初めて酒好きになれる

朝食にはちみつトーストを食べた。はちみつは昨年買ったものだったが、不思議と結晶化せず、きれいなままだ。なぜ買ったのだったか?
思い出した。ミードを作ろうと思ったのだ。
ミードとははちみつ酒のことで、作り方を間違えると違法系飲料となってしまう。
酵母は冷蔵庫に入れっぱなしにしていたのを使ったが、ブクブクが一切起こらなかったので、仕込んだ液体は全部捨て、はちみつだけが余ったのだった。

久しぶりに作ろうか。いや、でも、そうやって作った飲み物は、飲んでもなんともなく、いい気になって過ごすと、翌日頭痛がひどかったりしたものだ。恍惚がなく、事後の苦しみだけがある飲み物なんて、作っても意味がない。

勝谷誠彦が亡くなってから、アルコール依存症のことをよく考えるようになった。覚醒剤などと違って、自分が依存症と思っていない人が多いというのが怖い。大げさに言えば、飲酒する人で自分は依存症でないと思っている人は、依存症の可能性がある。依存症かもと不安に思っている人は、酒を控えようと思えるわけだから。
昨日は酒を飲まなかった。飲まない、という選択ができるかを確認するために飲まなかった。まだできる。しかし依存症になったら、いつの間にかできなくなっている。それは自分が自分でなくなることに等しい。

飲むか飲まないかを、サイコロの目で決めて、どっちでも楽しめるようになれば、酒から自由になったといえるのかもしれない。そうなって初めて、酒を愛することができるのではないだろうか。

朝から雨が降っていた。寒かったが、12月の通常の寒さと同じくらいだと思った。いや、むしろまだ暖かい方かもしれない。
昼、十二社の大勝軒でつけそばを食べた。店の外ですこし待ったが、上着を着なくてもまだ大丈夫だった。

『戦争と平和』4巻読む。
ニコライ、モテ期到来。士官としてすっかり貫禄がつき、なおかつ育ちがいいもんだからダンスも達者で、田舎社交界にセンセーションを巻き起こす。そこで、マリアとの再会イベントと、ソーニャからの手紙イベント。
ソーニャは、自分との約束はいったん白紙にしてくれというようなことを書いた。伯爵夫人に求められてのことだった。これまでずっと、犠牲になることをいとわなかったのは、それがニコライにふさわしい自分になる喜びになっていたからだった。だが、ニコライを諦めるという犠牲は、彼女にとって辛すぎた。ソーニャは、初めて、ニコライが欲しいと思った。今度ニコライが戻ってきたら、一生離れられなくさせてやるわ…やるわ…やるわ…やるわ…

ピエールは捕虜になる。プラトン・カタレーエフ登場。子犬みたいな人物。
アンドレイ公爵は、死のありようをとらえることができ、そこから生の意味を知った。そして、死は、生から死へ「目覚めて」いくことであるという認識を得て、生きたまま、この世の人でなくなる。ナターシャとマリアは、死へ旅立つ公爵を看取り、死の荘厳さに打たれる。

やはり、ソーニャがかわいそうだ。しかし、19世紀半ばの読者は、現在の読者ほど同情しなかったのではないか。気の毒だがしかたないという感じに思ったのではないだろうか。

夕方、雨は上がった。永福町の、いつも名前を忘れるなんちゃらセンターなんちゃらスーパーで買い物をしようとするが、欲しいものはなかった。クリーニング屋に行きスーツを受け取ろうとするが、休業日だった。ウエルシアに行ったが、そこでも買いたいものは見つからなかった。
流れ流れてサミットへ。柏餅といなり寿司と冷凍たこ焼きを買った。その中でなんちゃらスーパーやウエルシアになかったのは柏餅だけだった。オレが欲しかったのは柏餅だったのか。

いなり寿司が好きでたまらない。本気で食べたらいくつ食えるだろうかと思いながら、小さめのを5個食べた。そのサイズなら50個いけるかなと思いながら5個食べた。
50個食えるとしても、10個分を1個のいなりずしにしたのを5個食べるのはきついだろう。25個分を1個にしたのを二つ食べるのはもっときつい。まして50個分を1個にしたものは不可能だろう。別腹機能が働かないからだ。

ソフトバンクの回線に障害があり、午後は電話がつながらなかったらしい。しかし何の問題もなかった。こんなオレなんかに電話やメールやLINEをしてくるのは、「ピエロ」の入ったゴダール映画のタイトルをCTRL+Hキーで「ピエロ」⇒NULLに置換したあと、みたいな人だけだ。
帰宅した頃には復旧していたので、家でラジコでたまむすびを聞いた。風邪が治った赤江さんが元気いっぱいで、そういう時はピエール滝のきつめのつっこみが減る。
ゲストにしょこたんが来ていた。廃墟マニアとして紹介されていた。興味の持ち方と育て方が、根っからのサブカル人間なのだと思った。