戸籍で祖先のことを調べる

9時50分起き。外は小雨が降っていた。

洗濯をし、近所のコインランドリーでワンコイン分だけ洗濯物を乾燥機にかけ、部屋干しした。

「こうま」「星のうた2」「かに」を練習する。

1時過ぎ、雨がやんだのを見計らって家を出る。レンタサイクルで中野へ。中野駅西側にビルを建てていた。アトレだった。

ブロードウェイ北側のダイソーを覗き、売られている毛糸を確認する。続いてブロードウェイ地下1階のダイソーも覗く。毛糸に限らず、こちらのダイソーの方が品揃えが良く、店がきれいで、賑わっている印象を受けた。そのうち店舗が統合されるのではないか。

ブロードウェイ地下のクレープ屋で、生クリームマロンチョコのクレープを食べる。昨日からなぜかクレープが食べたかった。そんなこと人生において数えるほどしかない。

東西線に乗り、Y’S martで鶏もも肉と玉ねぎを買って実家へ。雨が再び降り出していた。

母はいなかったが、居間のテレビがつけっぱなしで、しかも、録画した番組を一時停止した状態だったので、時間が止まったみたいで不気味だった。母はすぐ帰って来た。買い物に行っていたらしい。鶏肉は親子丼を作るために買ったのだが、母は、今日はカレーが食べたかったので家にある材料で作ってしまったという。よって、親子丼は明日に持ち越し。

夕食にカレーライス食べる。

部屋にこもり、古いゲームをして、Youtube でUWFの歴史動画を見ていると、いつの間にか12時を過ぎていた。

自室にある、釣り具以外のものを整理する。父の相続手続きをした時に銀行に出すため使った父方の戸籍謄本コピーがあった。手続きが終わると返還されるのだ。しかし、あらためて見たことがなかった。

見ると、曾祖父の父の、そのまた父の時代からの戸籍があった。書かれている文字が判別しがたいところもあったが、自分のルーツを知る貴重な資料だった。

我が祖の名は駒吉という。家督を継いだのが曾祖父の富五郎。富五郎は別の家の次男坊で、明治28年に入籍とある。駒吉の孫とも書かれている。富五郎の生みの親は、駒吉の親類かなにかで、駒吉じいさまの養子になったということみたいだ。

駒吉の生年月日は書かれていなかったが、駒吉の妻キヨの出生日は天保十一年四月十三日と書かれている。1840年。亡くなったのは大正12年だから、1923年。83歳まで生きたことになる。当時としてはかなり長生きだ。

富五郎の妻、おれの曾祖母は、ノフ。フに点々はついていなかったが、当時のカナ表記に濁点はなかったのだとしたら、たぶんノブだ。ノフなんて呼びにくくてしかたない。明治9年生まれで、亡くなったのが昭和13年12月。父が生まれた年の暮れだ。

二人の間に生まれた三男が、祖父の嘉助。明治34年生まれ。昭和26年没。50歳になる直前に亡くなっている。父はその時、中学に上がる直前の12歳。

そこから先の戸籍は、自分も知っている。嘉助には5人の子があり、先妻との娘が一人、後妻との息子が四人。父は末っ子。

やはり、曾祖父関連の戸籍が面白かった。養子縁組とか分家という文字に物語を感じる。富五郎は、祖父がいるのに、なぜ婿養子を迎えたのだろう。のちに分家したのはなぜだろう。

1時就寝。