「二十四の瞳」

 「二十四の瞳」観る。
 年をとったせいなのか、近頃の穏やかな暮らしぶりがそうさせるのかわからないが、涙腺がゆるくなってしまったようだ。
 細かい子供らが走ったり歩いたりしているだけの映像が哀れでならない。

 ある年代の日本人にとってこの映画は涙なしに観ることが出来ないという。
 戦争という共通の体験がそうさせたのだろう。
 公開されたのが昭和29年で、その年のキネマ旬報ベストテン第一位に輝いている。
 二位が同じく木下恵介監督で「女の園」
 三位がなんと、あの「七人の侍」だ。
 一位との得票差は倍以上の開きがあったそうな。

 つまり昭和29年度の日本人は皆等しく「二十四の瞳」という世界を愛したわけで、これは平成13年度の日本人が等しく「千と千尋の神隠し」を愛したという状況に似ている。
 21世紀現在、「七人の侍」と「二十四の瞳」の評価は逆転し、それもダブルスコアどころではない差があるようだ。

 つまり「二十四の瞳」の世界に浸るためには昭和29年頃の日本という状況を思い描かないと難しいことになる。
 今回涙腺がゆるむほどこの映画に過剰反応したのはここ一月あまりのイラク戦争に理由があるかもしれない。
 いくら情報を集めようとも、社会学者や歴史学者、政治学者の意見を聞こうとも、情緒だけはどうしても戦争を拒否するのが人間だ。
 それはいいとか悪いとかの問題ではなく、生理反応といってもいいだろう。
 そして「二十四の瞳」はそうした情緒を刺激するシーンばかりで構成されている。
 理性では面白いといいたくはない。
 が、反応してしまう情緒はどうしようもないのだった。

 「グインサーガ」読了。
 ネット上での栗本薫バッシングというのがどういうものなのか、見たことがないのでわからないが、ここ数年あとがきでそのことに振れることが多いようだ。
 しかしあとがきを使って反論を企むのはやぶ蛇ではないだろうか。
 それに、あとがきにおける作者のはしゃぎ方はいつもみっともない。
 かれこれ14年間も読み続けている読者としては、そうしたはしゃぎっぷりは作品への感情移入を著しく阻害するものでしかない。
 その辺のところがわかっていないのだろう。
 たぶん多くの読者は地味な解説や後書きを望んでいるのだ。
 漫画同人誌のあとがきみたいな文を望んではいないのだ。
 (爆)という表現もやりたきゃ勝手にやればいいが、ネットの中傷で傷ついたことをあとがきで書くらいなら、(爆)という表現をやめればいいのだ。