つかこうへいとツービート

12時起き。トーストと牡蠣のオイル漬け食べる。

『つかこうへい 涙と笑いの演出家』読了。
北区つかこうへい劇団の劇団員による座談会は、晩年のつかさんがどのようであったのかを知る意味で大変面白かった。

ふと、たけしさんのことを思った。
ツービート漫才のフレーズを思い出しつつ書いてみる。

「ブスは毎年ブス税を納めなければならない」
「(貧乏人が)1万円を初めて見た日に熱を出した」
「おばああちゃんに道を聞かれたので近道を教えてあげたら、喜んで高速道路をてくてく歩いて行った」

なんだか、つかさんの芝居の台詞のようだ。

たけしさんは以前、テレビ番組で、
「…ヴォードビルショーとか東京乾電池とか、ああいうの、やりたかったんだよ」
みたいなことを言っていた。
実際ヴォードビルショーの公演にはゲスト出演したことがあるはずだ。

そんなたけしさんが、つかこうへいの芝居に無関心であったはずはない。
無名の観客としてとして一度ならず見ていたか、あるいは戯曲やエッセイの類を読んでいたのではないか。
漫才ブームが起きたのは1980年だが、スタイルとしての毒ガス漫才が確立したのはそれ以前だった。
確率期においてたけしさんは、つかこうへいの劇世界における毒を、少なからずツービートの漫才に取り入れたのではないか。

1984年に刊行された『たけし咆える』は、たけしに関する各界からの発言を引用し、毒舌で逆襲するという内容だった。
だがその本においてだだひとり、一目置かれているのが、つかこうへいだった。

お笑いウルトラクイズで、小説の内容を当てるという問題で、『蒲田行進曲』が答えだったことがある。
答えられなかった解答者に、たけしさんは、
「馬鹿だなあ」
とつぶやいていた。
そのつぶやきに隠れたリスペクトの念に気づいた人はいただろうか。

一方で、つかさんがたけしさんに関して直接何か書き残したということは、おそらくないと思う。
だが、つかさんの戯曲やエッセイには頻繁に、
「漫才師あがりが!」
というフレーズが登場する。
これは、たけしさんを暗にさしていたのではないか。

つかさんはたけしさんをどう思っていたのか?
二人は、直接会って話したことは一度もなかったのか?
もし話していたらどうなっていたのか?

妄想ではあるが、想像力をかきたてられる。

夕方、牛肉の徳用パックが安かったので購入。
安い野菜と安い豆腐を買い、すき焼きにして食べた。

夜は『暮れなずめ街』の台本書き。
詰まっていたシーンがようやく進み、残りはラストシーンのみ。
ラストを書く前に、余計な台詞を削ぐ。
上演時間は有限なのだ。

Youtubeにて、八巻健弐の映像を見る。
極真空手の元世界王者。ビッグハリケーン。
前蹴りが実に美しい。
世界大会の準決勝において、のちの王者フランシスコ・フィリォは、八巻の弟分の数見に敗れた。
この時、八巻とフィリォが戦っていたら、どうなっていたか。
そして、もしK-1に八巻が参戦していたらどうなっていたか。
妄想を抱くファンは多かったと思う。