沢田研二の武道館ライブチケットを買った

6時半起き。外に出る。寒かった。半袖短パンだからだ。もう少しこのままでいさせてくれと、腐れJ-POP歌詞みたいなことを思うが、むしろ、今までほんとにありがとうと言うべきなのだ。夏を夏にするところの何かに対して。

寒さのために寝床に戻った。そろそろ、朝、布団から出たくなくなる季節だ。それを防ぐために、昨シーズンの冬はガスファンヒーターをタイマー起動した。しかし部屋中が温まりすぎて結露がひどかった。

10時過ぎ、暖かくなってから本格的に起きた。が、特に何をする気もなく、やる気も気力もない。夢も希望もない。かといって、気持ちが下降することもない。無感覚。思わないゆえにある我。ゆえに、ではなく、思う思わないに関わらず、ただ、あるという感じに、あった。

レンジでご飯を温めて、卵かけご飯にして食べた。

先週人知れず行ったピロリ菌検査の結果が出た。陰性だった。だろうなと思ったが、検査結果という裏付けがとれたのでほっとした。

沢田研二の、コンサート中止騒動について。
ジュリーが、ドタキャンをするということの意味を、ファンは知っている。何かとても重要なことがあり、やむなくそうなったはずだろう。会場に行っていないファンは、そう考える。
ただし、当日会場に行ったファンは、怒るだろう。怒っていい。その権利は十分にある。気の毒だと思う。
ファンでなく、たまたま行こうとした人は、もっと怒っているだろう。その怒りはもっともだ。
払い戻しだけでなく、次の公演のチケットを優先的に入手できるとか、保証がされるといいと思う。もちろん、このことでファンをやめてしまったとしても仕方ないと思う。

自分が行けなかったから、さいたまスーパーアリーナのコンサートが中止になってしまったと、真剣に思うことにした。
悪いのは、いつでも行けると思って、コンサートに行かなかった自分のせいだ。

萩原健一の書いた『ショーケン』には、GS時代、ヤクザに「歌え」と脅かされたエピソードが書いてある。他のGSバンドメンバーがびびって及び腰になる中、ジュリーは「歌えないよ」ときっぱり言ってのけたという。
「歌がすべてだ」とジュリーは言った。ショーケンは、かなわないと思い、「ライバルは(松田優作ではなく)沢田研二です」と書いている。

重要なことを見落としている。
ジュリーは、ファンを大切にしてきた。だが、それ以上に大切にしてきたのは、歌だ。
歌われた瞬間にのみ存在する、「歌」という作品を、望んだ形で歌うことを、一番大切にしている。
だから、かつてライブで「歌って」と言われた時に、怒ったのだ。
そりゃ、歌うだろう。だが、その取り扱い、タイミング、呼吸、そのすべてに責任を持っているからこその、怒りだ。
大げさにたとえれば、手塚治虫の仕事場に入って、アトム描いてー、なんて言ったら怒られるだろう。

今回の場合も、歌のためにそうしたと考えると腑に落ちる。ドームの還暦ライブで80曲歌った人だ。あの時、お客さん第一に考えていたら、40曲くらいにしていただろう。40曲だって十分多い。自分のすべてである、歌のために、歌ったからこその、80曲だったのだ。

だから、ライブに行くべきなのだ。いつでも聞けると思ってはいけない。
焦りを覚えた。

しかし、チケットをとろうと思ったら、年内は一般販売すべて売り切れ。
さいたまの件、どうも、うまく売れなかっただけではないかと思う。あるいは何かヘマがあって、チケットを買いたい人が買えないようなダブつき方をしたか。
武道館で三日間連続でやる人が、さいたまスーパーアリーナのいちステージが売れないなんて考えにくい。軽い気持ちで行こうと思ってもチケットとれないのがジュリーのコンサートなのだから。
そのへんも、キャンセルの理由と絡んでいるのかもしれないが、そんなこたあどうでもいい。

だって、来年1月19日の武道館がとれたから。
やった。良かった。嬉しい。ジュリー最高。ジュリイイー!

今日はこれだけでいいや。