追い込まなくなった

仕事にて、新しく入った同僚と、昼飯を食べる。
音楽の専門学校に行っていたらしい。

仕事は、ルーティンワークをなんとかこなすくらいで、先を見据えたことは手に着かない状態だった。
稽古疲れではなく仕事疲れ。

夕方、新高円寺で稽古。
稽古場に着くと、自主練が盛り上がっていたので、しばらく眺める。

印刷台本は持って行けなかったが、後半を中心に作っていく。
笑里と成川さんの場面、ここがこうだからこう動けば、というやり方では、できないだろう。
人間に本来的に備わった、人を心配する感情を見つけ出し、それに気づき、引っ張り出し、その上で動いたらどうなるんだろうという体験を、稽古場でしないといけない。
以前は、こういう場面の稽古は他の役者を遠ざけて、追い込むようなスタイルで稽古していたが、最近その方法は使わなくなった。
役者が自主練出来るような言葉を選んで、しばらく時間をおいてから、良くなった部分を指摘する方法を使っている。

人間には感情というものがもれなく備わっているから、役を演じながら生の感情をちゃんと見つけ出し、演技で同化させることができれば、それが演技の土台になると思う。
その上で、役の心を育てていくと、微妙なニュアンスが出るようになる。

駄目出しをしながら繰り返し稽古するやり方も一つの方法で、自分はそれで育てられた部分が大きいが、コーチングとして見るならば、時間と労力とお金が今の倍以上必要な方法だと思う。
今回の場合、7月から稽古してないと、その方法では芝居が作れないし、作れたとしても次の芝居に生かせる自由な精神は育たないだろう。
駄目出しをされず、自由にやらされることの方が、本当はきつい。
出来たかどうかすべて、自分が一番わかっているという結果になるから、ダメな芝居をしてしまったら、決して逃げられない。