台詞からすべてが始まる

昨夜は寝苦しく、よく眠れなかった。
蒸し暑かったのたが、室温ではなく、体温がこもっていて、内から熱を発しているような暑さだった。
しかも、途中で蚊が耳元にやってきた。
寝ている時に聞く蚊の羽音ほと鬱陶しい音はない。
いっそ、どんどん血を吸ってくれ、その代わり飛ばんでくれ。
などと思いながらのたうち回り、それもまた身体の熱さを倍加させた。

明け方、外に雨音が聞こえる頃にようやく身体の火照りは治まったが、一晩中エクササイズでもしていたかのように、全身がぐったりしていた。

朝飯は食べず。
昼にカロリーメイトのみ食べた。
食欲がないというより、空腹感を特に感じなかった。

夕方、ヤマダ電機LABIでイヤホンを買う。
ウォークマンにつけて聴いてみたら、音が今までより各段に良くなっていた。
なぜ早く買い換えなかったのだろうと思った。

6時半過ぎ帰宅。
梅干しの瓶は無事に梅酢が上がってきた。
週末にでも紫蘇を加えれば、あとは漬け込んでおくたけだ。

「5時に夢中!」一昨日放送分見る。
上田まりえは慣れてきたが、まだ個性を出すところまで至っていない。
内藤聡子と比べられるのは気の毒だが、番組カラーに合っているとは思う。

第三舞台のDVDを観る。
ラストシーン、言葉の奔流と群唱と、あとは立ち上がるだけの動き。
何回見ても意味はよくわからない。
なのに、格好いいと思ってしまう。

台詞に熱を込める行為は求愛に似ている。
思い入れを強くすればいいわけではない。
時にはすかしたり、気のないそぶりをしたりと、様々な手管を弄していく。
最終的な目的はどこにあるのか。
お客さんに伝えることだけではない。
それは通過地点で、チェック項目だ。
台詞と自分が通じ合って、自分以外の人間が生まれる。
今度は自分ではなくそいつが語る言葉として台詞を言い、お客さんに伝える。
お客さんに伝わった、その伝わり方がどうであるのかを、役者は吟味していく。
まるで、自分が演じてるそいつは、お客さんの中にある何かを具現化したものであるかのように、繋がりを密にしていく。
その果てに何があるのか、いまだにわからない。
だが、果てを探すことをやめたらおしまいだ。
芝居がライブである以上、それが役者の宿命だと思う。

以前、ある芝居で、舞台上の女優さんが語る台詞に魅せられた瞬間があった。
特に変わった演技をしていたのではなく、ひとつひとつの言葉を丁寧に発していただけなのだが、その丁寧さが生み出すリズムはオレの中でいつの間にか共鳴し、魔力を生んだ。
その時オレは客席にいながら、舞台に、いや、舞台が表現しているその世界にいた。
第三の舞台にいたのだ。
ただ、その芝居は第三舞台とは何の関係もなかったのだが。

前回マグ不足では、台詞をどう言うかについて、色々と考えさせられた。
言い方ではなく、言うときの心のありよう、志の持ちよう、についてだった。
台詞を言うということについて、もう一度深く考え直す時期がきたのだと思う。
ワークショップがしたくなった。