母の演劇キャリア

4時に起きた。
外が暗かった。
真夜中だと思った。
4時は明け方なのか真夜中なのか、判断が難しい。
二十代の頃バイトしていた居酒屋の勤務時間は、夜7時から朝4時までだった。
仕事が終わった時に外が明るかったことは、6月でもなかった。
6月が夏ではなく初夏であるように、4時は朝ではなく初朝なのだろうか。

そんな初朝に起きてもやることはなかったので、20分ほどしてからまた寝た。
8時に起きた。
「昨日4時まで起きてたでしょ。もっと寝なくていいの?」
母が言った。
「ちがうよ。4時に起きたんだよ」

さばの塩焼き、納豆、大根おろし、蕗の煮物食べる。

母が、若い頃に俳優座養成所を受験した話をはじめた。
筆記試験がすごく難しかったという。
「あたし、高校の時は結構できたんだけど、難しくて全然わかんなかった」

母は両国高校を卒業している。
城東地区の都立高校では今でもナンバーワンの進学校だ。
ちなみにオレが行っていたのは、ナンバーツーの小松川。
妹は同じく同率2位くらいの城東。
我が母校ながら、小松川は中途半端な進学校だ。
東大を目指せる子はみんな両国に行ってしまうからだ。
かといって、城東ほど部活動は活発でない。

妹は今、江東区に住んでいる。
子供たちには、自分の出身校を秘密にしているのだという。
「なんでだろう?」
「びっくりしちゃうからだってさ」
「言えばいいじゃん」
「あの子達、そんなに頭良くないのよ。次男なんか、富山県どこって聞いても、わかんなーいっていうんだもの。『わかんないじゃないでしょ!覚えなさい!』って叱っても、全然覚えないの」
「つまんないから覚えないんだよ。面白かったら覚えるよ」
「そうだ」父が口を挟んできた。「俺はいつも言ってるんだ。頭良くないとか決めつけるんじゃないって」

孫の教育についてしばし言い合いがあった後、母は続けた。
「俳優座を受験した時、同じ受験生に渡辺美佐子がいたわよ。ぜーんぜんきれいじゃなかった」
「きれいとかは、関係ないんじゃないの?」
母は養成所の試験に落ちた。
その後、色んな舞台のオーディションを受けたという。
「『アンネの日記』のオーディションも受けたのよ。三井美奈って知ってる?」
「知らない」
「その子が受かったの。綺麗だった。すぐ財閥の御曹司と結婚して、芝居辞めちゃったけど」
朝日新聞社主の上野尚一と結婚したらしい。

高校を出てから何年か、母はけっこう「ガチ」で、演劇をやっていたようだ。
長くつき合っている友達の多くは、この頃の芝居仲間なのだった。
「Sさんもその頃に知り合ったの?」
「そう。あの人は美人だったから、あたしと違って映画志望だったけど」
Sさんには俺と年の近い子供がいて、小さい頃よく一緒に遊んだ。
「あの人、小さい役でドラマとか出てるのよ。あたしもエキストラ頼まれて、看護婦役で出たりしてた」

「そういえばさ、後輩がいたでしょ。学芸大学駅近くに住んでたお姉ちゃん」
「あの子ね。いい子だった」
「演劇関係の知り合いだったの?」
オレが物心つく前から可愛がってくれた人で、女優さんのように綺麗だったのだ。
「違うわよ」
「違うの?」
「あの子は、仕事で一緒だったのよ」
「オレ、小さい頃から、お姉ちゃんとしか呼んでなかったから、名前知らないんだけど」
「ヒラヤマさん」
「いくつ年下だったの?」
「5つかな」
「すると、オレが、プラレールとか買ってもらった時、30才たったのか」

母が会社勤めを始めた時、ヒラヤマさんはすでに働いていた。
仕事では先輩だったわけだ。
「入った時、あの子、先輩のお局軍団にいじめられててさ。あたしが間に入って、感謝されたのよ」

お姉ちゃんが何年先輩だったのかはわからないが、それほど差はないだろう。
せいぜい、一年違いだと思う。
母が入社した時に二年目で、高卒ならば、19歳くらい。
母は5つ上だから、24歳で会社に入ったことになる。

逆算すると、母が高校を出て演劇をしていた期間は、19歳から23歳までの5年間だったと考えられる。

お姉ちゃんは阪神タイガースが大好きだった。
オレが初めて野球を見に行ったのは、お姉ちゃんが連れて行ってくれた、神宮球場の阪神ヤクルト戦だった。

そのあと、若くして亡くなってしまったのだが。

生前の写真が一枚だけ残っている。
若い頃の池上季実子に似ていて、本当に美人だ。

オレ、こんな美人と一緒に、お風呂入ったことあるんだぜ?
しかも牛乳風呂だぜおい?

「なにドヤ顔してんの?」
「何でもない」
「あんた、ヒラヤマさんのこと覚えてる?」
「もちろん。おもちゃ買ってもらったよ。お姉ちゃんと、ダンナさんと」
「ダンナ?」
「結婚してたよね?」
「してないわよ。あの子は生涯独身」
「え? でも、オレ、お姉ちゃんの家に行った時、男の人いたよ」
「彼氏だったんじゃない?」

なんと。
プラレールで遊んでくれた、あのさわやか兄ちゃんは、彼氏だったのか。
ってことは、彼氏と牛乳風呂か?

「なに固まってるの?」
「何でもない」
「お昼どうする?」
「もうそんな時間?」
「あんた2時間も固まってたじゃない」

牛乳風呂のことを考えて固まることで、人生が2時間ムダに消費された。
時間を無駄にしている間は、カロリーを消費しないせいか、腹はまったく空いていなかった。

そのままソファに座っていると、石坂浩二のドラマが始まった。
「これ、面白いのよ。ベテランばっかり出るの」
「何て言うの?」
「やすらぎの郷」

倉本聰脚本のドラマだった。
出演は石坂浩二、加賀まりこ、八千草薫。
石坂浩二と加賀まりこの二人芝居が15分延々続き、時間が変わってから八千草薫と石坂浩二の場面になる。
そこで終了。
明日は、石坂浩二と八千草薫の二人芝居ということだろうか。

あまりの面白さに、画面に釘付けになってしまった。
セリフにまったく無駄がなく、初めて見たオレにも、場面設定や人物設定がうっすらとわかるようになっている。
途中から見ても面白い。
独白ナレーションの入れ方も見事で、掛け合いのテンポを崩さない。

衝撃を受けたまま、実家を出た。
地下鉄乗り、スマホで情報を検索する。
4月に始まったばかりのドラマで、シルバー向けと分類されていた。
だが、シルバー世代だけに見せていいわけがない。
会話の面白さだけで成り立つ、優れものの喜劇だ。
シナリオや小説を書いている人なら、絶対に見た方がいい。

昼飯はマックでハンバーガーを食べた。
そのままPCを開き、仕事関連の用事を済ませる。

4時半帰宅。
暖かかった。
そろそろこたつをしまってもいい頃だ。

夜、「みなさんのおかげでした」を、久しぶりに生で見た。
石橋貴明に犬を好きになってもらう企画と、木梨憲武が一般家庭を訪問する企画だった。
ロケが丁寧で、CMで中断することがなく、品のいい番組だなと思った。

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