カレールーのしくじり

4時起き。
一昨年買った安物のシーバスロッドを用意し、両親を起こさぬようにそっと家を出る。マンションの駐輪場で自転車にまたがった時、ルアーを入れた箱を忘れたことに気づいて取りに戻る。

外はまだ暗かった。日の出時刻は4時40分頃だった。家の前の道を左に曲がり、旧江戸川に向かった。
途中、100円の自販機があった。コカコーラのペットボトルが100円で売られていた。珍しいと思った。
麦茶を買い、雷の神社の横を通り、堤防に出た。自転車を止め、川岸の遊歩道に下りる。
対岸に明かりがあった。空はまだ暗い。遊歩道には誰もおらず、川は満潮近く、水が岸の上の方まで上がっていた。
怖かった。生きものの気配がそこら中にあった。常に誰かに見られているような気がする。
一昨年買ったルアーを使った。バイブレーションというやつで、重量があるのでそこそこ飛ばせる。だが、元のキャスティング能力が低いので、そんなことはあまり関係ない。
周りに釣り人は一人もいなかった。シーバスが釣れるポイントは、河口の湾岸道路の橋あたりらしいが、誰もいない方が気楽だ。ルアーを投げる練習をしにきたつもりだった。
投げて、引いて、河口に向かい少し歩き、また投げて引いた。
ルアーを思った方向に飛ばせなかった。下手くそだ。
しかし、何度も投げているうちに、まっすぐ飛ばせるようになった。
夜が明けると、イヌの散歩をする人が遊歩道を行き来するようになってきた。
釣っている後ろで、顔見知りの飼い主が立ち話を始めた。イヌも知り合いらしく、十分くらいレスリングをしてじゃれ合っていた。挨拶の言葉のあと、片方の白いイヌが飼い主と共に河口に向かって歩き始めた。もう片方の柴犬は、反対方向に歩かず、去って行く白いイヌをずっと見送っていた。
川で水上スキーを始める人がいた。歓声が岸まで聞こえてきた。

小雨が降ってきた。6時だった。2時間近くルアーを投げたが、まったく反応はなかったが、楽しかった。

朝食を食べる前に、パソコンのケースを開け、CPUクーラーを取り外した。グリスを塗り直していると、朝食の支度ができたと言われた。作業を中断し、食べ終わってから、CPUクーラーを取り付けた。
電源を入れると、PCは無事起動した。しかし、BIOSの設定画面で、CPUがオーバークロックされているというメッセージが表示された。
オーバークロック? してないはずなんだが。
そのまま起動すると、Linuxのログイン画面が表示された。パスワードを入れログインし、スマホを充電するためにUSBを接続した。すると突然、PCがシャットダウンし、再起動すると、マザーボードの起動画面で固まってしまった。昨日と同じ症状だった。
ケースを開け、メモリをさし直し、ハードディスクケーブルの抜き差しをすると、再びBIOSの設定画面が表示された。オーバークロックのメッセージがまた表示されている。
調子が悪かったのは、オーバークロックが原因ということだろうか? 覚えはない。だが、BIOSには発熱に応じてファンの回転数を自動調整する設定があり、オンになっている。Linuxを入れたのは昨年だが、発熱に応じてファンの回転を調整するアプリはないため、BIOS側でオンにしていると誤動作してしまうのかもしれない。
いや、まだよくわからない。とりあえず、設定をデフォルトにし、ファン回転の設定がオフになっているのを確認してから再起動した。今度はうまくいったようで、ログインしても固まらなかった。とりあえず直ったから、しばらくこれで使ってみるしかない。

ジャワカレーの大箱がキッチンに置いてあった。そういえば先週母はカレーが食べたいと言っていた。いつも辛いのを食べたがる。だからジャワカレーの辛口なのだ。スパイスを足して作ったら、満足するんじゃないかと思った。
「今日、カレー、作ろうか」
そう言うと、母は喜んだ。「嬉しい、楽しみ」と言った。父も喜んでいた。

本格的なカレーを作れるわけじゃないが、スパイスとコクを追加すれば、いつもと違うカレーになるだろう。材料はすでにあった。豚肉、冷凍のあさり、ジャガイモ、人参、玉ねぎ。

スパイスを買ってきた。クミン、コリアンダー、カルダモンの粉末。
コクを出すためカシューナッツと、玉ねぎも一つ買い足した。
ジャワカレーの大箱は13杯分あるので、ルーは半分で十分だった。肉と玉ねぎをバターで炒め、水を足し、スパイスを加え、20分煮込んだ。ジャガイモと、カシューナッツを細かく刻んだのを足してさらに10分煮込んだ。あとはルーを足すだけだった。そこで火を止めた。夜、温め直して、味見をしながらルーを足せばいい。

3時に家を出た。新左近川へ。これまで釣ったことのないポイントをめぐってみようと思った。餌はカレー作りで余ったあさりを使った。
子供の頃、旧江戸川で釣りをしているおじさんたちを眺めていたら、竿を貸して釣りをさせてくれたことがあった。そのおじさんが餌にしていたのはあさりだった。石で殻を割っていた。日没前後の満潮時で、大きいハゼがよく釣れた。
だから、あさりはいい餌になるんじゃないかと思った。

旧水門のあたりで釣りを始めた。釣りをしている人は先週よりもたくさんいた。
重りを軽くしたので、ウキは常に浮いている状態になった。底を擦るように長さを調整した。
仕掛けを投げ入れてはアタリを探り、なければ少し移動した。ウキが動くことは何度もあった。しかし、合わせても魚がかかることはなかった。どうやら、あさりの身が固く、ハゼが食いちぎることができないため、結果的に針にかからないようだった。
アオイソメ、ゴカイ、ミミズが餌の時は、食いついては引きちぎることを繰り返すうちに針にかかるのだろう。

荒川近くまで歩きながら釣ったが、最後まで魚がかかる感触は得られなかった。家族連れの奥さんがハゼを釣っていたから、釣れないというわけではないようだった。

6時前に引き上げることにした。特に残念ではなかった。餌の研究をしたと思えばいい。

家に帰ると、カレーの匂いがした。匂い?
「カレーのルー、入れた?」
「入れたわよ」母が言った。嫌な予感がした。
「いくつ入れたの?」
「全部使ったわよ」

ルーの半分を使うように、水や材料やスパイスを調整していた。そこへ、大箱全部のルーを入れてしまったら、しょっぱくて食えたもんじゃない。

「なんで全部入れるの! オレが作るって言ったじゃないの」
「でも、おいしいわよ?」母は言う。「味見して、あらおいしいって思ったもん」
「二倍入れたら、塩辛いに決まってるじゃん!」
「大丈夫だって! 美味しいって!」
言い合っても引っ込みがつかなくなるだけだ。「とにかく、そのままにしといて」そう言ってシャワーを浴びた。

頭を冷やしながら、出かける前に、ルーはオレが入れるからと言っておくべきだったと思った。やりかけの状態を見ると手を出さずにいられないという母の性分を、オレは熟知しているんじゃなかったか?

シャワーから上がると、母は濃いままのカレーライスを食べていた。
「薄めるつもりだったのに、何で食べるの!」また言ってしまった。「美味しいわよ」母は意地になっているようだった。

ルーの味見をしてみた。思った通り、辛いというよりは塩辛く、粘度が高すぎたため鍋底が焦げ付いていた。
湯を沸かして、だし汁を作った。お湯で薄めるよりはいいだろうと思った。カレーの鍋にそれを少しずつ加えて伸ばした。

父に、薄めたカレーライスをよそって渡した。自分のもよそった。食べてみると、まずくはなかったが、特に美味しくもなかった。薄めたスープを、カレー味でごまかしているような味だった。
でも、これはこれで仕方ないと思った。怒りの感情は続かず、気分は収まっていた。苦笑して母に「塩辛かったでしょ?」と言った。「ううん、美味しかった」と母。
母の気分は落ち込んでいるように見えた。

何かを作っていて、目を離した時に母が手を出し、うまくいかなくなって言い合いになることは、子供の頃から何度もあった。今日も同じことが起こったわけだ。違うのは、へそを曲げて、「もう二度と作ってやんねー!」とか叫び、カレーを捨てて家を飛び出したりしなかったことだ。それをやる年じゃない。学生服着てたらやってたかもしれないが。

だが、そういう反応をした方が、母は楽だったんじゃないかと思った。たかがカレーで切れる息子。バーンと音をたててドアをしめ、家を飛び出すの図。
「なによ! たかがカレーくらいで男らしくない!」
そういう反応ができた方が、楽だったんじゃないか。

実家を出て、家に帰りながら、そのことを考えた。カレーのルーを母が入れたのを知った時、冷静さを装うことができればよかったのだが、今日に限って言えば、丁寧に作っていたから失望感が大きかった。シャワーを浴びて頭を冷やすまで、5分くらい落胆していた。
まあ仕方ないと思えたのは、母も年をとったのだし、という思いがあったからだった。しかし、オレがそう思っていることに気づいた母は、自分が年をとった事実に直面し、かえって落ち込んでしまったのではないか。

どうすればいいかわからん。

家に帰り、発泡酒とストロングゼロを飲んだ。餃子とカップ麺を食べた。スープは捨てた。

Youtubeで圓楽と談志のリレー落語を見た。圓楽がふっと目を細めて笑顔になると、釣り込まれて笑ってしまう。談志が続きをやると、テンポの速さに幻惑させられる。相手のセリフを食い気味に演じるというやりとりを落語でやってしまう。食い気味にというところがすごい。言い終わらないままつないでしまう。