「Future Pop」聴く

昨日と同じ種類の青虫が、トマトの若芽をヘルシーな朝食にしようとしていたので、割り箸でつまんで地面に放った。
隅々まで調べればもっといるのだろうが、棚の上にはかなりの葉が茂っていて、真ん中あたりを調べるのは不可能になっている。
いつくか実が赤くなっていたが、摘み取らなかった。どれも小さい。窓に近いところの一つは実割れを起こして、アリが糖分を求めて割れ目周辺を彷徨っていた。

外は暑かった。だが、先月下旬の手に負えない暑さに比べると、少しマシになってきた。

昼、ファミマで、ファミチキと豆腐のサラダを買おうとしたら、サラダの賞味期限が過ぎていたらしく、レジで引き取られた。仕方なく別のサラダを選び直し、レジ前の列に並び直した。会計の時、ファミチキが売り切れていた。最初に並んだ時はあったのに。ガッカリしたが、お盆の人員不足を店員二人だけで回していたので、揚げる暇もなかろうと思い、文句を言わず別チキを買った。

『64』下巻、半分まで読み進んだ。組織と組織の板挟みになる主人公の三上が、個に立ち返り、やるべきことを見つけ、行動する場面。

午後、やや眠い。

夕方、走りたいなとぼんやり考えて、Googleマップを眺め、家から片道5キロで行けるのはどのあたりかを調べた。走ったことのないルートを見つけるのは難しかった。
自転車のライトのスイッチを入れたら、明かりがついてすぐに消えてしまった。

6時半帰宅。コースを決めずに走りに行く。考え事をしていたので、どこを走っているのか理解してなかった。
昔、あることですごく怒ったことを思い出し、なぜあれほど怒ったのかを考えていた。すると怒りが再現され、目まいがするほど感情がかき乱された。
そのうち、五日市街道を走っていることに気づき、どこまで走ろうかと考えた。とたんに、それまで胸の中にあった怒りの感情が消え、何に対して怒っていたのかさえ思い出せなくなった。
怒りの燃料として、心の襞に付着していたタールのようなものが、少しずつなくなってきているのだろか。そうであるなら、不意に訪れた怒りは好転反応のようなものだ。

五日市街道を西へ走った。環八を渡り、井の頭通りから久我山方面へ斜めに折れる道に入る。まっすぐ行けば立教女学園の坂の上に着く。手前に久我山駅に下る道がある。以前よく走った道だ。
昨日の大雨で久我山駅のエスカレーターは浸水したと聞いた。まさか今日も水が引いてないということはないだろう。
久我山駅に着いた。駅の目の前を神田川が流れている。水は引いていたが、川幅は狭いから、集中豪雨に見舞われたら溢れてしまうのもわかる。エスカレーターは整備中で、作業員が点検していた。

元来た道を戻る。環八で五日市街道に入るのを忘れ、井の頭通りを走ってしまった。途中で気づいて、サミットの先を左折し、和田堀公園の南から善福寺川沿いのいつも走っているコースに合流した。11キロ走ったが、思ったよりも汗をかかなかった。そういえば、風の涼しさを感じた。熱帯夜の時期はもう過ぎたのかもしれない。

久しぶりに湯船につかった。

Perfumeの新譜「Future Pop」が届いた。
おととし6月以来ライブに行っていない。シングルがリリースされるたびに買ってはいたが、以前のように曲にわくわくすることはなくなっていた。
アルバムには、この2年半にリリースされたシングル曲も入っている。いつものパターンだ。
だが今回は、新曲とシングル曲がひとつにまとまり、全体像を浮かび上がらせていた。いまひとつ馴染めなかった既知曲も、全体のうちの一曲として聞くことで、良さが際立つようになっていた。
コンセプトを言葉にするのは難しい。和であり、アジアであり、未来である。
新曲は、ファン寄りではなく、リスナー寄りの作りになっていると思った。Perfumeのファンではない音楽好きなリスナーが聞いても心地よく聞けるような。音楽そのものの良さを感じてくれと願っているような。

一曲一曲の良さを書いても仕方ない。アルバムを通して聞いた時、キラキラしたのや、懐かしいのや、カワイイのや切ないのやが、音とシンクロして心の中を通り過ぎていく。そしてまたはじめから聞きたくなる。こいつはいいアルバムだ。