未来はいつまで

昨日、落合博満・福嗣親子の旅番組を、違法アップロードコンテンツで見た。10年前にテレビ東京で放送したものらしかった。
修善寺から河津をめぐる伊豆の旅で、二人の会話が和やかで面白かった。落合さんは穏やかに話し、終始落ち着いていた。
それで気がついたが、落合さんが焦ったり激昂したりしているところを、現役時代からほとんど見たことがない。キャリアを築いた力の根本にあるのは、その落ち着きなのだろうと思った。

6時半起き。雨。
キャベツと卵の味噌汁、納豆、おかゆの朝食食べる。

母から電話。今週、先生と今後の治療について打ち合わせをする日程をどうするかと聞かれたので、先生の空いている時間を聞いておいてくれと伝えた。

8時20分に家を出る。

ファミマに寄り、土曜日にネットで売った財布を発送した。

せっかく買った財布、KINは、コインが一カ所から出てくる機能に問題はなかったが、自分の場合財布の中にあるコインを一枚ずつ選ぶ動作が日常で重要なのだとわかり、売ることにした。
注文して届くまで2年7ヶ月。届いてから売るまで一週間。
熱愛結婚成田離婚。情熱熱風せれなーで。

午前中、再び母から電話。先生の説明を聞く時間が明日の12時と決まった。

昼、コンビニで納豆巻、味噌汁、サラダ。
『現代思想の遭難者たち』読む。字が小さい。

200年後の日本についてふと考える。
その時代自分は間違いなく生きていない。日本に、こうあってほしいという気持ちはもちろんあるが、それよりも未来の図が想像できかね、半分以上はどうなっていても関係ないという気持ちになっている。
今から200年前といえば江戸時代。その頃、日本全体を一つの国として捉えることのできた日本人はほとんどいなかったろう。未来を憂える人たちはいたろうが、「藩の未来」だったろう。すると、200年後の我々は、その人々の願いを完全に裏切っていることになる。
いや、裏切りと呼ぶのはおかしい。200年後なんてそういうものだ。
200年が100年になっても、事情はそれほど変わらない。今から100年前は明治憲法下の大正時代。その頃の人々がこうあって欲しいと思い描いた未来の日本は、今のこれではなかっただろう。
ところが、100年が50年、25年と短くなるにしたがって、未来として憂える気持ちが強くなってくる。わが祖国よ何処へ行くなどと嘆きたくなる気持ちが、どこからともなくやってくる。自分や肉親が生きている可能性があるから、そう思うだけなのではないか。孫やひ孫までは心配できても、その先は心配のしようがない。200年後の日本には、心配するとっかかりがない。しようと思えばできるけど、どこか観念的に心配することになる。
現在を見て、国の未来を憂えた末に、この国はもうダメだ、などと考える人は多い。しかし、その未来は具体的に何年先くらいまでの範囲をさしているのだろうか。
国は、世代が変われば急変しうるものだ。1850年の日本と、1900年の日本はまったく別の国だ。50年の間に、明治維新があり日清戦争があった。幕府は倒れ、都が移った。国は大きく変わった。
心配する未来を、常に10年後、あるいは20年後と決めてかかった方が、現在の日本が進むべき道をコントロールしやすいのではないか。いま、五カ年計画という不吉な単語も浮かんだが、生産に限ったことではなく、10年後の世代構成・人口などから社会を予測した上で、毎年何らかの手を打っていくとした方が、変に憂えるよりも現実的だと思う。国が国に送るタイムカプセル政策だ。
ここまで考えて、具体的なプランが思い描けなかった。政治や社会がわかっていないからだろう。誰か、10年後20年後システムを提唱して立候補してくれ。

夕方実家へ。母と、セカンドオピニオンのことについて話す。

寒かった。桜が咲き始めた頃の気温だった。雨も降りやまなかった。