祖父のこと

4時起き。ブログを屑文で更新し、書き作業をし、トマトを2個収穫した。

トマト棚をぐるっとひと回りしてみた。日の当たってない葉が枯れていた。
摘み取ってしまった実の下葉を三茎ばかり刈った。先月は葉っぱに覆われていた容器の蓋が見えるようになった。
収穫数はトータル49個になった。昨年は8月10日頃にやっとその数に到達した。この収穫差はやはり、脇芽を放置してそれぞれがさらに脇芽を伸ばすという状態になったことが大きいだろう。
蓋が見えるようになったので、根元に近い茎が5つくらいの茎に分かれているのがわかった。どれも太かった。
2018年の駄ブログを調べると、50個あたりまではまあまあの大きさを維持していたようだ。そのあたりから猛暑日が続くようになり、花は実をつけなくなり、実も大きくならなかった。今年もそうなってきたらとっとと撤収した方がいいかもしれない。

朝飯に、ご飯、味噌汁、きゅうりのぬか漬け、トマト。ぬか漬けはぬか床に塩を足しすぎたため辛かった。

水耕栽培の水を足す。バケツ半分で一杯になった。日が出ていないせいかもしれない。

7時20分頃に家を出る。小雨だったが、雨雲レーダーによると大雨にはならない予報だったので、自転車で現場に向かった。ゆっくり漕いだが汗が出た。

午前中、新ツールのフィルタ条件が正しいかどうか答え合わせをするため、本日付のデータをもらい、従来のやり方と新ツールとで件数の比較をした。フィルタ条件にちょっとだけミスがあり、それを集成すると件数は同じになった。ガッツポーズが出た。

昼、プーさんの店で日替わりランチ食べる。4月くらいから現場を中心に半径2キロ圏内の町中華定食屋洋食屋をめぐったが、CPの高さではここの日替わりが一番だと思う。

天気は薄曇りで蒸し暑かった。

『こころ』読む。
『私』が先生に私淑するようになったのは、(なんかよくわかんないけどカッケー)と感じたからではないか。そして漱石作品は明治末頃の書生達に、(シャレオツだなあ)と思われていたのではないか。もしオレが明治末から大正にかけてどこぞの学校に通う書生だったら、間違いなくそう思っていただろう。その軽薄さに自信がある。

夕方、西葛西へ。アコレで大福買う。6時半過ぎ実家帰宅。
夕食に、ロールキャベツ、きんぴらごぼう。

珍しく居間のテレビが消えていたので、食後そのまま居間に残り母と話す。母方の祖父のこと。

祖父は若い頃、相場に手を出して一文無しになった。それで新規まき直しをはかるため、勤めていた国鉄で朝鮮赴任を志願した。
母方の兄弟はすべて向こうで生まれた。鉄道職員として働きながら祖父は資産を増やした。母によると、不動産関連の投資ではなかったかとのこと。家は大きくなり、最盛期はお手伝いさんを雇っていたという。
裕福になると、祖父は子供のためにお金をかけた。伯父などは、本棚に一杯の本や漫画、スケート靴、8ミリカメラを買い与えられていた。スネ夫並みの待遇だ。
戦争が終わり、祖父は再び無一文となって日本に引き揚げることになった。資産は貴金属や骨董など現物ばかりで、すべて現地の人に売ったそうだ。
家族は富山にある祖母の親戚に身を寄せた。祖父は一緒に暮らさず、引き揚げが遅れたり、一人で東京に出て働いたりしていたらしい。
昭和20年代半ば過ぎに祖父は新宿の柏木に家を建て、家族を呼び寄せた。母の三つ上の伯母は都立三商高校に通っていたから、少なくとも母が中学に上がる頃に家族は東京に出てきていたことになる。
先日、母方の家の墓参りをした時、墓石に祖父の享年が刻まれているのを見た。昭和31年没。60歳だった。母が高校三年生の年だ。となると、家を建てたのは55歳で定年した後くらいになるだろうか。退職金を使ったのかもしれない。

祖父の写真は実家にない。どんな人だったのかもまったく知らなかった。しかし、そのような話を聞くと、『人生ゲーム』みたいな人生を送ってきた山師っぽい人であるというプロファイリングが自分の中で進行した。
母が高校に進学する時、祖父はお祝いに何が欲しいか聞いたという。映画女優がしているような素敵な腕時計が欲しいと言ったら、本当にそれを買ってくれたそうだ。
末の娘に対して、好きなものをドーンと買ってやる(かまし方)をする祖父。母方の親戚を見渡しても、そういう山っ気のありそうな人はいない。ふと、祖父のそういう部分は、自分の中に少しばかり遺伝されているんじゃないかと思った。

11時過ぎ就寝。