7時前に起きた。
昨日の残りのお粥を、舞茸と卵のスープで雑炊にして食べる。
30分ほどPremiereの復習をして8時過ぎに家を出る。
朝の限りある時間でできる家事について考えつつ。
8時40分からお仕事。
昼、お弁当の焼き肉、サラダ、さばの水煮食べる。
夕方まで大きな作業はなかった。
終業前、またデータが消えているとクラサワさんから報告を受け、調査をする。
過去のデータは3年分くらいバックアップがあるので、さかのぼれば復旧はできる。
いつ消えたのかを突き止めるのは簡単で、例えば2ヶ月前のデータを解凍して中身をしらべる。
消えてなければ、1ヶ月前のもので同じことをする。
消えていれば、1ヶ月半前で同じことをする。
繰り返せば、何月何日の、何時から何時の間に消えたかがわかる。
今回のケースは、消えたのではなく、途中で別のデータにすり替わっていた。
別のデータはすでに存在しているので、する変わった時点で同じものが2件あるように見えてしまう。
その後おそらく、重複データであることを理由に削除されたのだろう。
すり替わった原因はわからないが、とにかくデータを復旧させた。
6時半だった。
6時40分にあがる。
ドラッグストアに寄り、7時半帰宅。
もも肉の焼き肉、玉葱サラダなどで夕食。
観たい映画がなかなか観られない。
時間の配分の問題。
平日の自由時間は、朝早起きをして1時間。
昼休みの食事をのぞいた40分。
帰宅が早ければ夕食と入浴の時間をのぞいた数時間。
足せば、おそらく5時間未満だろう。
寝る時間を遅くしても朝の時間が少なくなるので同じこと。
自由時間で何をするのか?
見る。
読む。
書く。
作る。
だらだらする。
飲む。
話す。
単純に分けてこんなところ。
今日は映画を見たかったのだけど、Youtubeで探るだけに終わった。
「サタデーナイトフィーバー」
「グリース」
「パルプ・フィクション」
それぞれのダンス映像を見た。
ジョン・トラボルタ。
トラボルタのファンであったことは過去ないのだけど、嫌いだったこともない。
ダサいなあと思っていたことは正直ある。
80年代の半ば以降だ。
実際、70年代終わりにキャリアのピークを迎えた後、80年代のトラボルタは不遇だった。
「スティン・アライブ」という映画が封切られたのは、「フラッシュダンス」が公開された年の年末だった。
映画評でピーコさんだったか、
「スタローンがイモだというのがわかった」
という感じのことを書いていた。
なぜスタローン? と思ったが、のちに製作が彼だと知った。
当時、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が大ブーム。
そしてブレイクダンスが一般に知られ始めていた。
トラボルタの映画は、そんな中いかにも時代遅れに見えた。
でも、それはトラボルタが原因ではなく、80年代中頃における、70年代的なものに対する魔女狩りの雰囲気が、そうさせていたのだと思う。
トラボルタは70年代そのものだったから、結果的にスポイルされたのだ。
70年と80年代は水と油の関係にあった。
70年代的なものを完全に反転したのが、80年代という時代だった。
70年代は60年代を否定して成り立っていたのか?
それはわからない。その時代を肌で知らないから。
90年代は80年代を否定する時代だった。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなど、80年代の音楽はすごくダサく聞こえた。
逆に70年代ディスコミュージックが格好良く聞こえた。
敵の敵は味方という意味で、90年代は70年代に少し似ていた。
トラボルタが「パルプ・フィクション」で復活したのは、タランティーノの感覚が90年代そのものだったからではないか。
70年代の格好良さは、ひと言でいえば、ダサかっこよさだと思う。
それを説明するのが、トラボルタのダンスではなかろうか。
ビージーズの “You Should Be Dancing” が流れ、ディスコでフィーバーするトラボルタ。
ダサいんだけど、ダサいんだけど、ぐるっと回って、めちゃくちゃカッコイイと思ってしまう。
小林信彦の弟さんが、アメリカで公開時にこの映画を見て、
「錦糸町のあんちゃんが主役の映画だ。面白いよ」
と言ったらしいが、的確すぎる表現だと思う。
映画「グリース」では、オリビア・ニュートン=ジョンと共演。
ハイテンションの学園ミュージカル映画。
全米一位になったデュエット曲は、
ああ、たまらない。
お嬢様だったオリビアが、黒い革のパンツをはいて、タバコを吸って現れる。
「サンディ!」
と驚くトラボルタの顔のアホ面がダサくてダサくて、たまらなくカッコイイ。
80年代に否定されたダサさが、90年代においてはどうしてかっこよさになったのか。
「パルプ・フィクション」の超有名シーン。
これを見て、カッコイイと言える人と、言えない人がいる。
「どこがカッコイイの?」
と言う20代の若者に会ったこともある。
料理でいえば、ダサとは、アクのようなものだと思う。
アクをひたすら取り続ければ、スープは透明になるが、素材の旨みもなくなってしまう。
どの程度取るかによって、最終的な味が決まる。
かっこよさも同じだろう。
「ダサ」がどの程度含まれるかによって、最終的なかっこよさが決まる。
そこに計算があってはいけない。
スープにアクをわざわざ足す奴はいないだろう。それと同じだ。
70年代という時代は、ダサかっこよさという概念がなかったからこそ、天然の純良なダサかっこいいコンテンツに満ちている。
ダサいか? 普通にカッコイイと思う。
アース・ウィンド・アンド・ファイアー。
カッコイイ。
この曲。
似てはいないけど、70年代的なものがいっぱい詰まってる。
「ダサ」を、とても美味しく残してる。
実はけっこう好きなのだこの曲。