70年代ダサかっこよさの考察

7時前に起きた。
昨日の残りのお粥を、舞茸と卵のスープで雑炊にして食べる。
30分ほどPremiereの復習をして8時過ぎに家を出る。
朝の限りある時間でできる家事について考えつつ。

8時40分からお仕事。

昼、お弁当の焼き肉、サラダ、さばの水煮食べる。

夕方まで大きな作業はなかった。
終業前、またデータが消えているとクラサワさんから報告を受け、調査をする。

過去のデータは3年分くらいバックアップがあるので、さかのぼれば復旧はできる。
いつ消えたのかを突き止めるのは簡単で、例えば2ヶ月前のデータを解凍して中身をしらべる。
消えてなければ、1ヶ月前のもので同じことをする。
消えていれば、1ヶ月半前で同じことをする。
繰り返せば、何月何日の、何時から何時の間に消えたかがわかる。

今回のケースは、消えたのではなく、途中で別のデータにすり替わっていた。
別のデータはすでに存在しているので、する変わった時点で同じものが2件あるように見えてしまう。
その後おそらく、重複データであることを理由に削除されたのだろう。

すり替わった原因はわからないが、とにかくデータを復旧させた。
6時半だった。

6時40分にあがる。
ドラッグストアに寄り、7時半帰宅。
もも肉の焼き肉、玉葱サラダなどで夕食。

観たい映画がなかなか観られない。
時間の配分の問題。
平日の自由時間は、朝早起きをして1時間。
昼休みの食事をのぞいた40分。
帰宅が早ければ夕食と入浴の時間をのぞいた数時間。
足せば、おそらく5時間未満だろう。
寝る時間を遅くしても朝の時間が少なくなるので同じこと。

自由時間で何をするのか?

見る。
読む。
書く。
作る。
だらだらする。
飲む。
話す。

単純に分けてこんなところ。

今日は映画を見たかったのだけど、Youtubeで探るだけに終わった。
「サタデーナイトフィーバー」
「グリース」
「パルプ・フィクション」
それぞれのダンス映像を見た。
ジョン・トラボルタ。

トラボルタのファンであったことは過去ないのだけど、嫌いだったこともない。
ダサいなあと思っていたことは正直ある。
80年代の半ば以降だ。

実際、70年代終わりにキャリアのピークを迎えた後、80年代のトラボルタは不遇だった。
「スティン・アライブ」という映画が封切られたのは、「フラッシュダンス」が公開された年の年末だった。
映画評でピーコさんだったか、
「スタローンがイモだというのがわかった」
という感じのことを書いていた。
なぜスタローン? と思ったが、のちに製作が彼だと知った。

当時、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が大ブーム。
そしてブレイクダンスが一般に知られ始めていた。
トラボルタの映画は、そんな中いかにも時代遅れに見えた。

でも、それはトラボルタが原因ではなく、80年代中頃における、70年代的なものに対する魔女狩りの雰囲気が、そうさせていたのだと思う。
トラボルタは70年代そのものだったから、結果的にスポイルされたのだ。

70年と80年代は水と油の関係にあった。
70年代的なものを完全に反転したのが、80年代という時代だった。

70年代は60年代を否定して成り立っていたのか?
それはわからない。その時代を肌で知らないから。

90年代は80年代を否定する時代だった。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなど、80年代の音楽はすごくダサく聞こえた。
逆に70年代ディスコミュージックが格好良く聞こえた。
敵の敵は味方という意味で、90年代は70年代に少し似ていた。
トラボルタが「パルプ・フィクション」で復活したのは、タランティーノの感覚が90年代そのものだったからではないか。

70年代の格好良さは、ひと言でいえば、ダサかっこよさだと思う。
それを説明するのが、トラボルタのダンスではなかろうか。

ビージーズの “You Should Be Dancing” が流れ、ディスコでフィーバーするトラボルタ。

ダサいんだけど、ダサいんだけど、ぐるっと回って、めちゃくちゃカッコイイと思ってしまう。
小林信彦の弟さんが、アメリカで公開時にこの映画を見て、
「錦糸町のあんちゃんが主役の映画だ。面白いよ」
と言ったらしいが、的確すぎる表現だと思う。

映画「グリース」では、オリビア・ニュートン=ジョンと共演。
ハイテンションの学園ミュージカル映画。
全米一位になったデュエット曲は、

ああ、たまらない。
お嬢様だったオリビアが、黒い革のパンツをはいて、タバコを吸って現れる。
「サンディ!」
と驚くトラボルタの顔のアホ面がダサくてダサくて、たまらなくカッコイイ。

80年代に否定されたダサさが、90年代においてはどうしてかっこよさになったのか。
「パルプ・フィクション」の超有名シーン。

これを見て、カッコイイと言える人と、言えない人がいる。
「どこがカッコイイの?」
と言う20代の若者に会ったこともある。

料理でいえば、ダサとは、アクのようなものだと思う。
アクをひたすら取り続ければ、スープは透明になるが、素材の旨みもなくなってしまう。
どの程度取るかによって、最終的な味が決まる。

かっこよさも同じだろう。
「ダサ」がどの程度含まれるかによって、最終的なかっこよさが決まる。
そこに計算があってはいけない。
スープにアクをわざわざ足す奴はいないだろう。それと同じだ。

70年代という時代は、ダサかっこよさという概念がなかったからこそ、天然の純良なダサかっこいいコンテンツに満ちている。

ダサいか? 普通にカッコイイと思う。
アース・ウィンド・アンド・ファイアー。
カッコイイ。

この曲。

似てはいないけど、70年代的なものがいっぱい詰まってる。
「ダサ」を、とても美味しく残してる。
実はけっこう好きなのだこの曲。