5時半起き。汗を流すために入浴した。
7時半過ぎに家を出る。東野幸治の『ホンモノラジオ』聞く。ダディ、先々週コロナに感染したが深刻な症状はなく、10日ほど待機して復帰したらしい。自宅待機中はNetflixばかり見ていたが、ビールケースに変身する女の映画がやばかったという話が笑えた。
自転車のグローブを防寒用のではなくカラー軍手に変えてみた。若干ヒヤッとしたが問題なかった。ネックウォーマーもせず、上着もユニクロのウィンドブレーカーにした。
内田樹『街場の文体論』読む。
どんなに難解な書物でも、何度も繰り返して読めばわかってくるという例として、ハイデガー『存在と時間』のことをあげていた。大学院生の時に読んだらしい。はじめは意味がまったくわからなかったが、三週間かけて読んでいくうちに、ふとわかるようになっていることに気がついたという。オレも今、ちくまの古典新訳文庫の4巻を読んでいるが、全然わからん。でも勇気づけられた。
午前中、別ツールのエラーについて分析結果を書いてメール返信した。
昼、キャベツ千切り、ハムカツ、チキンカツを食べた。
午後、ツールの改修。もうゴッド氏ツールと呼ぶ必要はないので、今後は『秀子』と呼ぶことにする。昨年作った『節子』は原節子からいただいたので、今回は恐れ多くも高峰秀子からいただいた。ま、オレが脳内でそう呼ぶだけなんだが。
夜、内田樹『街場の文体論』読了。
神戸女学院大学の教授職を退官する前の最終講義を本にしたものだった。講義名は『クリエイティブ・ライティング』で、前半は言語学についての説明があったりしたが、後半はテーマが文体論だけに収まらなくなり、ウチダ講談の趣を持つようになっていた。
講義は2010年から2011年にかけて行われた。退官直後、東日本大震災が起こった。
ウチダ先生は関東圏に住んでいる人の西への移住を主張していた。是非はともかく、賛同者が多かったようには記憶していない。そのように主張したのは、言論人には警世する責務があると思っていたからだろうか。
その責務の因って来たるところの情熱が、講義の後半から感じられた。研究者というよりは教育者由来のものだろう。研究そのものより、成果を人に伝えたい思いの強さを感じた。
ふと、あの頃を思い出す。
地震が発生してから一週間は、仕事も休みになった。家にいることが多かった。スーパーやコンビニへ買い物に行くと棚から食料品が消えていた。テレビでは福島原発のニュースをやっており、危機感を感じながら見ていた。ただ、待つことしかできなかった。外は良い天気が続いていたように思う。でも、日の光の中に放射能が混入しているのかもしれないのだと思うと、積極的に外へ出て行く気にはなれなかった。
そして今、ロシアが核部隊に準備態勢をとらせたというニュースを聞いた。11年前の自宅待機の日々を思い出した。ベラルーシでは停戦協定が開かれるという。間をとりもつのはどこの国になるのか。トルコが名乗りをあげているらしい。確かに、非難囂々で足並みを揃えている西側諸国にその役は担えない。
プーチンの行動は、頭の良い人達への国際政治的なお題となっている。NATOのせいだ、アメリカのせいだ、何々やってるヤツはバカだ、みんな頭悪すぎる、などなどの文章を、日曜日あたりから諸SNSやブログなどで見かけるようになった。一方、市井の人々は、反戦デモやウクライナへの募金という形で反応している。
オレはというと、何をしたらいいのかわからず、ただ、外は良い天気なのに積極的に出て行く気がしなくなっている。
戦争反対を叫びたいのではなく、それ以前の、戦争中止の方法はないのかを考えている。屁理屈だが、戦争賛成することで戦争を中止にできるのなら賛成したいくらいだ。戦争反対の声によって誰かを追い詰め、戦争が促進されるのだとしたら、無防備に叫ぶことができないなあと思っている。『戦争反対』を叫ぶという形の戦争、というのもありうるだろう。
やはり、本当に戦争を中止にしたいのなら、各国、ベラルーシの会議に食いつくべきだろう。優先順位でいうと、まず中止。そこだけに絞れば、首脳陣レベルなら何かできそうな気がする。
世界中で戦争反対の機運が一気に盛り上がったということをどう解釈するか考えた。もはや戦争は、人類が全体で解決していかなくてはならない『課題』であるということだろう。だとすればやはり、なぜ起きるのかをローカルなところに原因を求めるのではなく、人類の普遍的な問題としてとらえ、まず中止、を目的にしなくてはいけない。
そう考えると、人類は過去の歴史において、膨大な数の戦争を『こっそり』してきたのではないかと思う。こっそりできたから、やれた戦争というのが、ものすごくたくさんあったのではないか。そして、戦争が終わってから、実は戦争があったという過去形を用いて、歴史にしてきたのだ。
今の時代はそういうことができなくなっている。
できなくなったということを人類的な『チャンス』ととらえ、反対を叫ぶ前に、中止に向かって行動する人類の一人になりたい。でもどうすればいいのか具体的な方法がわからない。わからないけど、もし選択肢が目の前に提示されたら、どっちが中止への道かという判断は、常にするようにしていこうと思う。