明け方、汗をかいていたので、着ていたシャツとトレーナーとパンツを取り替える。
朝、起きて体温を測る。37度7分くらいになっていた。昨日は下がったと思ったが、また上がっていた。
喉は相変わらず痛かった。すごく痛いわけではなく、飲み込む時にほのかに疼痛を感じる程度だった。
薬は、食後に飲む薬と、痛み止めの頓服を二種類もらっていたが、喉の痛みに対してはどちらもあまり効いていないようだった。しかし、痛くても食事は平気で、パンだろうがラーメンだろうが飲み込むことはできた。つまり、食えないほどの痛みではない。そして、味覚障害はまったくない。
東京マラソンの受付は木曜から始まり、今日で終わる。
途中でリタイヤしてもいいから、いっそ走っちまうかと思わないでもなかった。しかし、火曜日に走った時の体の重さを考えると、完走など到底無理だろう。
やめる。あの日は走るのが苦しかった。息もすぐ上がったし、信号が赤になっていると止まれるのでホッとした。
去年の10月にふるさと納税返礼品でもらった米がなくなったので、再びふるさと納税で、無洗米10キロの返礼品がある佐賀県の自治体に20000円寄付をした。
夜、東京マラソンの受付時間を過ぎ、今回の参加は完全にできなくなった。棄権が確定した。病気で棄権する時は、連絡の必要があるのかと思ったが、サイトを見ても書かれてはいなかった。受付をしていないから、計測チップなどの返却はしなくていいはずだ。
2008年の第2回東京マラソンから申込を続けて、今回初めて当選するまで17年かかっている。次の当選にも17年かかると考えるべきだろうか? そうだとして、17年後の自分は走れる体を維持しているだろうか?
コロナに罹ったのは、自分は東京マラソンに参加するのに値しない人間であるからだという考えが浮かんだ。明るく楽しくみんなが笑顔になる素晴らしい大会に、自分などが参加していいはずはないのだと。
この方向の考え方をエスカレートさせていけばどうなるかは想像がつく。あえて、行けるところまで進めてみるという好奇心が、自分の中に少しだけ、あるにはある。
だが、今回、それはしない。その好奇心を満たすほど、自分には時間が有り余っているわけではない。
今回の出来事を、問いが立てられたと思うことにした。お題を与えられた、の方が適当かもしれない。
人生でやっと巡ってきた機会をものにする直前に、これまで罹ったことのないコロナ感染によって不意にするという経験は、自分にとってどういう意味があるのか?
この問いを考えながら生きていくことにした。
当然ながら、今日のところは答えはでない。ちょっとでも考えると、悪い方へ悪い方へ思考が流れていく。
もちろん、逆境にあっても常に前向きになりたいとか、そんな、くっだらねえええええええ! ことを考えているわけではない。
また近いうちにきっと当選するよとか、そんな、しょうもねええええええ! ことを考えているわけでもない。
このように、心を突っつけば、ものすごく荒くれた反応が返ってくる。それはたぶん、今日が棄権した当日だからだ。今日は、恨みと呪いに満ちた言葉が、ヘドロとともに心の表面へ浮かび上がってきている。
でも大丈夫。荒くれた反応をすることで、何かが解決されるわけではないことを、どうやら、年の功で学んでいるらしく、死ねえええ! みたいなことは、思わないし、思えない。
どうせオレなんか、とも、思わないし、思えない。
すると、与えられた問いは、宙に浮かぶ。
コロナよ、なぜこのタイミングで、オレに感染したのだ?
先週、87歳の母が体調不良。様子を見に行き、食事を作った。母は一昨年コロナに感染している。今回はコロナ検査を受けていないが、喉が痛いと言っていた。扁桃腺が腫れていたそうだ。
この時しか、密で人と会ってはいない。間違いなく、母はコロナだったのだろう。そして、それに感染し、東京マラソンに出場できなくなった。
もちろん、母が悪いわけではない。完全に、巡り合わせの問題だ。様子を見に行く日を二日くらい遅らせていたら、感染していなかったかもしれない。しかし、日程的に、その日に実家へ帰るしかなかった。なぜなら、東京マラソンがあったから。最後の走り込みをしないといけなかったから。
その走り込みも、発熱と体調不良でできなくなった。なぜなら、コロナに感染してしまったから。
くどい。こういうことを考えることが、問いへの対応とは思えない。
けど、今日はそれをしてもしかたがない。なぜなら、やっと出られると思っていた東京マラソンに出られなくなってしまった日だから。
自分の心が混乱している様子や、どこへ進もうとするのかを、丁寧に追いかけたいから、今日はそのくどさを許す。
あとは、一応、寝て過ごす。その方が早く回復するだろうから。