1996年の安生洋二

午前中、昨日炙っておいたハゼを干し網に入れ、軒先で干す。

9時半から作業。先週の飲み会でセイゴさんが言っていたツールのことが気になったので、どのツールかメールで聞く。

昼、自転車で高井戸の『一光』へ。久しぶりにここのラーメンが食べたかったのだが、臨時休業だった。

そのまま自転車で南台へ行き、借りていた本を返し、予約していた本を借りる。

午後、セイゴさんからツールの場所を教えてもらったので、ツールをダウンロードして中身を調べる。ODBC経由のパススルークエリがあったが、自分の環境では開けなかった。

夜、『安生洋二 200%の真実』読了。200%の由来は、Uインターが主宰した1億円マッチへの出場を呼びかけられた前田日明が、リングスとUインターの対抗戦を主張し、そこから始まった舌戦で安生が前田に「200%勝てる」と発言したことによるもの。本書冒頭で安生は、それらの発言は宮戸が考え、自分に言わせたものであると反論する。

宮戸は安生に頼み事をする時、「一生のお願い」というフレーズを多用したという。しかし、頼まれたことをやってしまった以上、立場は変わらないのではないか。

UWF道場で一番強かったのは高田だったという発言も、安生が全身にまとう『高田好き過ぎ』オーラが相殺しているように感じた。山崎批判もこのオーラから語れる。前田と高田は、高田を愛し奉るには、もっとも目の上のたんこぶ的なポジションにいたわけだし。

個人的には、1996年の一年に渡ってプロレス界を席巻したゴールデンカップスは大好きだった。Uインター以外、メジャーもインディーズも関係なくどこにでも出没し、Uインター以外の格闘技の大会にも出場するあり方は、2000年代の高山義廣のあり方を先取りしていた。ていうか、高山もゴールデンカップスの一員だったわけだが。

ゴールデンカップスの活動があと2年、せめて1年続いていれば、2000年代の安生は違ったレスラー人生を送っていたのではないかと思う。まず、一般層への知名度浸透が違っていただろう。1996年前半の安生は、『ごっつええ感じ』のコント「香川さん」で、『安生の切り抜き』として登場しているし、ハロルド作石の漫画『ストッパー毒島』で、三条洋二のモデルになっている。一般人には「誰それ?」だったとしても、作り手が出したいと思わせるような魅力があったということだ。それは、1999年から2000年頃の桜庭和志とは違った質の魅力であったし、それ以前、それ以後を考えても、他にそういうレスラーはいなかった。たとえ、失うものは何もない状態でやけくそになっていたのだとしても、1996年の安生さんをたった1年しか見られなかったのは、つくづくもったいなかった。